「学習塾が教育を語るなと言う人もいるけれど」

lisa78_mbasawaru20141018102912_tp_v塾友だちのブログに、「学習塾が教育を語るなと言う人もいるけれど」という記事が上がっておりました。
「学習塾は生徒の成績を上げるのが仕事であって、
学習塾が教育を語るなと言う人もいる」
という前置きから文章が始まっております。
さて、私はここにいくつか疑問を感じます。
まず、第1に、学習塾は「成績を上げるのが仕事である」なんて、誰が決めたのでしょうか。
私は、私塾の良さというのは、公教育のように「文部科学省」や「指導要領」に左右されないことがあると思っております。
つまり、それぞれの塾がそれぞれの理念に基づいて運営できる点が素晴らしいと思っているのです。
「地域の一番高の合格を目指す」という塾があれば、「学力再生を目指す」という塾もあります。はなまるゼミナールのように、単に勉強ができれば良いというのではなく、「学力を生きていける力に」してほしいという願いを持っている塾もあります。
だからこそ、保護者、生徒の方々が、ご家庭の教育方針に合う塾を選ぶことができるのです。
そして、第2に、生徒の成績と教育は切り離せることができるのかという点です。
私は、今、複数種類の心理学の勉強会に通っております。その最大の理由が、保護者、生徒の「良き相談相手」になるという目的からです。
長年、子どもたちを指導していますと、子どもたちの成績が単純に勉強の内容や量だけで左右されるものではないとわかります。
突然、成績が下がったと思えば、その原因がお父さんとお母さんの夫婦仲の悪さだったり、いい感じに成績が上がったと思えば、単身赴任のお父さんが自宅に戻ってきたりと、子どもの成績はご家庭と直結していることがあります。
そういう現実からとらえますと、子どもの成績を上げるためには、勉強だけではないのです。やはり、教育的な側面がたくさん出てくるのです。
先に紹介したブログ記事においても、「本当に教育って何だろう? 勉強って何だろう?」という言葉が出てきますが、親や学校の子育てだけではなく、塾においても、とても大切な視点であると思います。
私は、創塾した6年前も今も、家庭、学校・地域に次ぐ、子どもたちが大きく育つ3番目の場を提供したいと思っております。
子どもは、社会の中で育っていく。
これからも、変わらずこういう立場で塾を運営していくつもりでおります。


答えは、1つだけ?

Think positive! You Can Do It!私は、授業で答え合わせをするときには、なるべく子どもたちに答えを言ってもらうようにしております。それは、子どもたちがどのように表現しているのか、知りたいからです。しかし、すべての問題をそうするわけにはいきません。量を解いてほしいときには、解答を配布し、マル付けをしてもらうことがあります。

子どもたちのマル付けを見ていますと、解答通りでないとマルをしない子どもがおります。しかし、正式の解答しか「答え」はないのでしょうか。

私はそうは思いません。もちろん、国語などはいろいろな表現が許されますので、一字一句解答通りでなくても、マルになる場合もあるでしょう。では、算数はどうでしょう。

たとえば、1+1の答えは「2」です。答えは1つだけになります。しかし、もしある子が

男女のカップルが結婚して、子どもを産んだ。家族は3人になった。だから、1+1=3である

と表現すれば、私は、それは正しいと言うと思います。
もちろん、解答は大切です。しかし、もっと大切なことは考える力であり、表現する力ではないでしょうか。
子どもたちが成長し、大人になり、社会に出たとき、また愛する人と出会い所帯を持ったとき、どこに「正式の解答」があるというのでしょうか。理不尽な「解答」もあります。妥協しなければ得られない「解答」もあるでしょう。子育てにおいて、「子育て本」通りにいかないことなどは当然のことだと思います。大切なことは、「正式な解答」にあわせるのではなく、自分で「解答」を導き出せる力なのではないかと思います。
私は、子どもたちに「生きていく力」を持って欲しいと思っておりますが、それは「正式な解答」に自分を合わせていくことではなく、自分の「解答」を導き出せる力ではないかと思います。

photo by: viZZZual.com

子育ては社会で

My happy family - Eduard,Me,Biba,Bernadeta Paula, Henrij Paul and GREGOR PETERある塾のメールマガジンを読んでいると、家庭学習というテーマで次のようなことが書いてありました。

中学生くらいの勉強であれば、お母さんがすべて教えられるのだから、面倒を見るべきである

これには、私は強い違和感を覚えます。本当でしょうか。

まず、第1に、中学校で習う勉強がそんなに簡単なのでしょうか。高校入試問題の解説とまではいかなくても、たとえば国文法の「文の成分」や「品詞の識別」などをさっと教えられるものでしょうか。文学部を出ておられて、その辺は得意という方でも、数学で「三角形の合同条件」がさらっと言えたり、それを使って証明する方法を我が子に教えるのは大変なのではないでしょうか。中学理科で習う理科の回路図における電流計算、その理屈と計算方法を中学卒業から何年も経って、覚えているものでしょうか。

次に、子どもを持つ親の誰もが中学時代に「人に教えられるほどしっかりと勉強した」とは限らないということです。

私の同級生の中には、中学時代に「やんちゃ」していた友人が少なからずいます。高校に通わなかった人、通ったけれどやめてしまった人は、やっぱりいます。また、いろいろな事情で集中して勉強できなかった人もいるのです。

中学を卒業したからといって、誰もが他人に「中学内容を教えられる」なんてことは無いのです。そういう考えは、傲慢といってもけっして言いすぎではないと思います。

しかし、中学時代にあまり勉強できなかったとしても、今、立派に社会人として生活していたり、子どもを育てていたりしているのであれば、誰にも責められるべきではありません。我が子に、がんばる親の姿を見せているのであれば、そのこと自体がすばらしいことであり、そのうえ勉強なんか教えなくても別にかまわないのではないでしょうか。

私事でいうと、私の母は、勉強嫌いだったようです。従って、文字を読んだり書いたりすることが苦手で、私が小学校の高学年になる頃には、親が書くべき書類などはほとんど私が代書していました。そんな感じでしたから、勉強で分からないところを親に教えてもらった記憶がありません。しかし、この経験から、私はつまずいたら、自分で調べるクセがつきました。

3つめに自分が分かることと他人に教えることはちがうということです。自分が分かっているからといって、自動的に教えられるということにはならないということは、一度でも他人に教えたことがある者なら、誰もが経験することだと思います。だから、塾教師という仕事が成り立ちます。

自分が理解しているから教えられるのであれば、世の中の塾や家庭教師などはほとんど必要なくなるでしょう。しかし、実際には必要が無いどころか、至る所塾だらけです。春先や夏休み、冬休み前になると、毎日というほど多くの塾が新聞に折り込みチラシを入れています。それは、たとえ大学卒であっても、教えるのは大変であるということです。

そして、問題はまだあります果たして親が我が子を教えられるのかという点です。

まだ、小学生低学年までなら、それは可能だと思います。しかし、高学年、とりわけ中学生の我が子に母親が教えるということが通用するのでしょうか。

塾講師を20年もやっていると、本当にたくさんの保護者の方々と面談してきました。「子どもが反抗して、言うことを聞いてくれない」「子どもを教えているとついイライラしてけんかになってしまう」という話は枚挙に暇がありませんが、「我が子は中学生ですが、私が教えます」という方はほんとごくまれにしかおられません。

仮に、そういう方がおられたとしても、中学生になっても、親がつきっきりで勉強を見るというのが、自立の面から言っていいのだろうかということもあります。なんと言っても、義務教育は中学までで、それから先は自らが人生選択して、歩んでいかないといけないわけですから。
最後になりましたが、この10年、多くの保護者の方々とお話をさせていただいて、つくづく感じるのが、「大半のお母さんは、子育てでたいへん悩まれている」ということです。勉強面だけでなく、ほんとうに多岐にわたることでお悩みになられています。その上で、ともすれば、「子育ては母親の問題」として責任を一方的に負わせられる社会の目が存在します。
私は、子どもは社会が育てるべきものであり、生みの親だけがその責務を負うものではないと確信しておりますし、そのつもりで塾を営んでいるつもりでおります。

こうした考えに基づくと、「中学くらいの勉強は、親が見るべき」というのは、子育てに悩まれている親御さんを救うどころか、ますます苦しめることにしかなりません。「親離れ」をめざし、親に反抗し出す子どもと話をするのも大変な家庭で、「勉強を教える」ことなど必要ありません。そんなことをすれば、子はますます親に対して反抗します。そして、親子関係が最悪なものになることは目に見えています。

私は、勉強面をはじめ、子育てに悩まれているのであれば、「親が何とかしよう」ではなく、他人に任せてしまう方が親にとっても、子どもにとってもいいのではないかと思っております。

photo by: rolands.lakis

しあわせには絶対にひとりではなれない

「もじのちから」さんが、暖かいメッセージと文字を公開されておられるのですが、その中で、感じるものがあったものを、紹介させていただきたいと思います。

しあわせは

絶対に

ひとりではれないんだよ

仲間が必要だよね

子どもが母親のおなかから生まれ落ちる。両親を始め、多くの人々から祝福される。しかし、人間の赤ちゃんというのは、生まれてきた段階では何もできない存在です。お母さんやお父さん、兄弟姉妹、あるいは親戚や近所の人から、さまざまな援助を受けながら、大きく育っていきます。

いや、周りの人々から支えながらという意味では、子どもの時だけではありません。大人になってからも、本当にいろいろな人たちの手を借りています。

小学生高学年くらいになってくると、親の手を借りずに「なんでも」できるようになり、ともすれば「自分1人で生きていける」錯覚を覚えがちです。こうした意識は高校生くらいが絶頂ではないかと思います。しかし、そこから年をとるにつれて、実は自分1人では何にもできないことが痛感させられるのです。

こうして書いている私も、京都で始めた1人暮らしの大学生活で、初めて痛感したのは、「インフルエンザ」にかかったときでした。布団の上から起きられない、食事も食べることができない、このまま死ぬんじゃあないかと思ったことがありました。また、この春に実母を亡くし、通夜から葬儀、その後のさまざまな儀式や事務処理などをする過程で、本当に多くの人たちにいろいろなことを教えてもらい、「まだ、この年になっても知らないことがあるのか」と痛感させられました。また、同時期に教室拡張をしましたが、やはり知らないことがいっぱいで、やはり多くの人に助けていただきました。

実は当たり前のことなのですが、私たちは、やっぱり多くの人たちの関係の中で生きているんですよね。けっして、ひとりきりで生きているのではありません。

そして、大切なことは、私たちは他人の役に立つために生きているのではないかと思います。

はなまるゼミナールでは、「学力を生きる力に」ということを根本に指導を行っていますが、そのことは実は「社会の中で役立つ人」になってほしいという思いでもあります。世の中で生きていける、あるいは自分らしく生きていけるということは、社会から必要とされているということと、同じ意味ではないでしょうか。

しあわせは、絶対にひとりではなれない。家族の中、社会の中で、自分がしあわせになれるということを、これからも子どもたちと感じていきたいと思います。


勉強はなぜつらいのだろう

勉強の始まりはなんでしょうか。私は、

文章を字句通りにスラスラと読めること

だと思います。

はなまるゼミナールでは、国語の本文は音読を基本としております。スラスラ読める子もいれば、つまりつまり読む子もおります。それは良いのですが、聞いているだけでは「スラスラ」読めているようでも、実は「自分勝手な」読み方、つまり読み違いをしている子どもが少なからずおります。「読み違い」をしていれば、文章を「スラスラ」読んでるようでも、内容はまったく理解できてはいません

しかし、実際に、子どもたちに音読してもらい、きちっと字句通りに読めているかチェックしながら授業を進めていくと、数ヶ月語には、字句通りに読めていくようになります。時間も手間もかかりますが、やはりこれが基本だと思います。文章が字句通りに読めないと、国語はおろか、算数だって、理科だって、社会だって、本当の意味で理解はできません。もちろん、好きな教科であれば、「何となく分かる」ということはあります。しかし、それでは「真の力」とは言えません。

書いてあることが分からないと、勉強も苦痛です。いくら見直しても、間違えのやり直しをしても答えが合いません。ますます嫌になります。内容が分かっていないのですから、答えが分からなくて当然です。ですが、文章がスラスラと字句通りに読めてくると、勉強がかなり楽になるのです。

子どもがはじめて、コマ無しの自転車に乗ったときを思い出してみるとわかりやすいかも知れません。頭の中は倒れるのではないかと恐怖でいっぱいになり、手には余計な力は入り、ガチガチになったりします。しかし、なれると、まったくそんなことは気にせずに、楽に自転車をこぎます。

勉強もやはり同じことではないかと思います。はじめは、いろいろと考えたり、余計な力が入って疲れるかも知れませんが、一度なれてくると、そんなにも辛いものではありません。もちろん、自転車に乗って、さっそうと外に出かけるのと比べると、勉強はそんなに楽しいことばかりではありません。しかし、コツコツと練習をし続ければ、やがてさっそうと勉強の世界に入り込めるようになると思います。そうなっていくような学習の指導を目指しています。

photo by: billaday

部活と勉強の両立

親御さんと面談などをしていると、たびたびこうしたことを相談されることがあります。
うちの子、成績が悪いので、部活を止めさせようと思っています
私は、ほとんどの場合、部活を止めさせることには反対します。それは、部活を止めて、自由な時間が増えたからといって、その分勉強するとは限らない。むしろ、部活に集中し、残りの時間を勉強に集中するという「緊張と緩和」という意味では、部活を止めてしまうと「緩和」ばかりになってしまって、勉強すら集中できなくなる可能性が高いと言ってきました。
理論的にどうかはよく分かりません。しかし、経験上、ほぼまちがいなく「部活を止めても、勉強に集中しない」と言えるからです。
さて、では「部活と勉強の両立」という問題をどのようにとらえるべきなのでしょうか。
そもそも、「部活と勉強」を相矛盾したことがらのようにとらえるべきではないと、私は思います。そうではなくて、子どもが成長していく上で、ともに大切なことがらなのではないでしょうか。
たとえば、母親を例に取りましょう。
母親というのは、「子ども」を中心とした役割です。しかし、母親は、夫の妻としての役割もあります。また、その母親が外で働いていれば、「パートさん」「社員さん」としての役割もあるでしょう。同様に、父親だってそうです。「父親」という役割は、「子ども」を中心としたものです。会社に行けば、会社での役割があります。技術者で課長であれば、社内においても「技術者」という役割と「上司」という役割もあるでしょう。もしかしたら、さらに「経営者」としての側面もあるかも知れません。
たとえば、私であれば、家では「夫」としての側面、子どもたちには「教師」という側面、さらに「塾経営者」としての側面もあります。親からすると「長男」であり、妹からすると「兄」としての役割を果たさなければなりません。
さて、私たちは、様々な側面を持ちながら、生活をしているわけですが、妻があるいは夫が「こんないろんなことをするのはしんどいので、1つにしぼる」と宣言したらどうでしょうか。
ある日妻が、「疲れたので、子育てを止めて「妻」だけやる」とか、逆に「子育てはするけれど、「妻」はやめる」なんてことはありえません。
つまり、人が社会生活を送る上で、さまざまな役割があり、それぞれをこなしていく必要があるのです。それは、決して矛盾したバラバラのことではなくて、生活上、一体のことだと思います。
つまり、子どもの「部活と勉強」の両立を考える上でも、分解して考えるのではなく、一体のものとして、当然やっていくものとして考えていきたいものです。部活や勉強だけではありません。家事を手伝うこともあると思います。ご家庭によっては、妹や弟の面倒を見るということも大切でしょう。「大変なので、どれか1つ」ではなくて、どれも、子どもが成長していく上で、とても大切なことだと思います。


『起死回生の家庭教育』

私が通っていた中学校に当時、少し変わった先生がおられました。いろいろなエピソードがありますが、今でも良く覚えていることは、生徒にむかってことあるごとに「三歩下がって師の影踏まず」と説教をされておられました。私は、「尊敬」というものは、「上から押しつけられる」ものではないと思っております。小学6年生のときの担任は授業の大半を「居眠り」される方で、とても「尊敬」できるような教師ではありませんでした。授業は、教室の前に置かれたテレビに流れるNHKの小学講座を見せられることが多かったですし、いまだによく覚えているのは、国語の授業の際に音読をある生徒に当てたまま眠ってしまい、彼は延々と本を読まされたことです。そんな教師に対しても、「三歩下がって、、、」なんてとても思えるものではありません。
私が塾に通うきっかけとなったのは、この先生が担任になると分かった小学6年生のときでした。こうしたことを考えると、やはり「尊敬」の念とは、他人から押しつけられるものでは決してなく、心の奥底から自発的に出てくるものであり、それゆえに非常に尊いものであると思っております。
ところで、私には、3人の恩師がおります。この先生方がおられなければ、今の私はなかっただろうと思うのです。私自身、もういい年になってしまいましたが、今なお、その先生方にお目にかかると、緊張して仕方がありません。
成績不振、受験失敗、イジメ・不登校 起死回生の家庭教育』は、当時、小学6年生の私たちに熱意と愛情を注いで教えていただいた太田明弘先生の本です。
今、はなまるゼミナールには、たくさんに子どもたちが通ってきてくれております。その中には、親御さんが「我が子の学力」をたいへん心配され預けていただいているお子さんが多数おられます。この本を読むと、私の教育にかける思いは、まさに太田先生から伝えられた魂であると実感せざる得ません。
教育に必殺技のようなものはないと思います。しかし、「成績不振」「受験失敗」「イジメ・不登校」そして「子どもの自立」に向けて、悩まれていろ保護者の方には、ぜひご一読していただきたいと思います。何らかのヒントが得られると確信いたします。

子育てや教育において最も大切なことは、どのような崖っぷちに立たされようとも親は希望を失ってはならないということです。親が諦めたら、その段階で子どもの教育は終わってしまいます。いかに失意や落胆が重なろうとも、子どもが大人になるまで、子どもの可能性を信じ、打てるだけの手を打ち尽くすということが大切なのです。『起死回生の家庭教育』「はじめに」より引用

photo by: mshamma

《続》子どもの要望をどう考えるか

以前の記事「子どもの要望をどう考えるか」で、テスト直前の授業でやってほしい内容を子どもたちに聞くと書いたところ、次のようなご意見をいただきました。

自分の意見の言える子どもは良いが、言えない子どもはおいてけぼりではないか

こうした保護者の方の気持ちはよく分かります。また、以前の記事の中での保護者からのクレームの内容も、私は上記のようなものではなかったかと思っております。

しかし、子どもの教育を考える場合、10年後、20年後を考えていかないといけないと思うのです。

たとえば、どうしても人前で意見や要望を言うのが苦手であるという子どもがいたとしましょう。その子は、できることなら、中学、高校、大学と年を経るにつれ、しっかりと発言できるようになっていくのが望ましいと私は思います。しかし、どうしてもできなければダメなのか。私は、そうは思いません。中学、高校、大学と経るに従い、「意見や要望を言うのが苦手な自分でもやっていける能力」を身につけていけば良いだけのことだと思います。しかし、自己を表現するのが苦手な子どもが「苦手でもやっていける術」を身につける前に、親が「うちの子はそういうのが苦手なのだから、そういう場をつくるのは止めてほしい」と出てきて、教師がその通りに従えば、その子は、「自己を表現するのが苦手でもやっていける術」を身につけずに終わってしまいます。

しかし、そうした子どもでも、いつかは社会に出るのです。社会に出たとき、あるいは結婚して新たな家庭を築いたときに、「自己を表現するのが苦手でもやっていける術」がなければ、その子はどうなのでしょうか。やはり、他者との関係を築きにくくなり、生きにくくなるのではないでしょうか。

私は、子どもはいろいろな失敗をしながら、たくましさを覚えると思っております。私自身も今思えば、幼少の頃、思い出すだけでも赤面するようなことをたくさんしてきました。そのたびに、親が謝罪してくれたりして、「親としての責任」を果たしてくれていたのだと思うと、申し訳ない限りです。しかし、一方でそのようにしてさまざまな経験を蓄積したと思っております。

子どもがつまずく前に、親が先に出てきて支えてしまえば、子どもは「なぜつまずくのか、どうすればつまずかないですむのか」学ぶことができません

私は、時々、親御さんにこういうことがあります。

自分が会社の経営者、あるいは責任者だとして、自分の子どもを雇いたいと思いますか?

自分の子の成長を見るのに、ひとつの尺度にはなるのではないでしょうか。つまり、雇いたいと思える、あるいはそういう側面があれば、その子は社会で通用できるのです。能力的な側面、人格的な側面、いろいろと判断材料はあると思います。一概には言えないと思いますが、少なくても、つまずいたときにあるいはつまずきそうなときに、自分で判断し、立ち上がっていくような子どもが、この厳しい社会の中でも乗り切っていけるのではないかと思うのです。


「本人の前を保護者が歩いていて困る」

ベネッセの教育情報サイトに安田理さんという方が、「本人の前を保護者が歩いていて困る」という記事を書いておられました。

日本社会のあり方がかなりのスピードで変化し、将来の社会像も不透明になっています。そんな中、さまざまな場面で格差も広がってきております。それだけに、保護者の方々は、いろいろとしらべたり、考えたりして、我が子の将来を少しでも安定したものにしてあげるためにご苦労をされています。

しかし、そうしたご苦労が、実は「子どもたちがその成長に合わせて、苦労したりする機会を奪っていく」現実を危惧されています。安田さんはこう言います。

こうして保護者のかたが前を歩き、保護者のかたが決めて、お子さまがその敷かれたレールの上を素直に歩いた時に、下のような大学生になってしまうことが多いのです。

・履修届けを一人では出せない
・友達づくりも大学がお膳立てしないとできない
・課題研究では、何をやっていいかわからない
・個人では優秀でも、グループで協力することが苦手で、グループ研究ができない
冒頭に述べたような社会状況から、つい心配して手を出したくなります。しかし、それはこれまでにお話ししたように、お子さまを一人前の大人にするうえではまったく逆効果なのです。

現代の大学生の現状であると思いますが、やはりこうした学生が多いことには危惧せざるを得ません。私も大学生になった教え子と話をしていて驚いたことがありました。それは、大学側が学生に自己紹介カードを書かせて、冊子をつくり、それを元に「友だちをつくる」お膳立てをし、さらにはコンパまで決めるというのです。それを教えてくれた彼女は、「なんで、こんなことして、友だちをつくらなあかんねん」と言っていましたが、本当にそうです。しかし、逆に言うと、大学側がこうした工夫をしてあげないと、友だちすら作ることができない、あるいは同級生とのコミュニケーションがとれなくなってきた学生が増えてきたということなのでしょう。

しかし、大変なのは、この学生は数年後、就職して社会に出るわけです。大学に「友だちづくり」までお膳立てされてきた学生に、本当に会社勤めが勤めるのでしょうか。はなはだ疑問です。いったん、就職をすることはできても、会社が「使い物にならない」と判断した人間は「みずから辞めざるえない」ような仕事をさせて退職に追いやります。退職に追いやられた者は、「崖から突き落とされたライオン」のようにみずから這い上がってこなければなりません。しかし、目の前にある崖が見えることができれば、苦労しながらも這い上がってこれるでしょうけれど、「なぜ、突き落とされたか分からない」場合は、次の会社でも同じように「突き落とされる」かも知れません。

子どもたちには、中学、高校くらいの間で、できるだけ多くの社会経験、とりわけ様々な苦労や失敗などを繰り返しながら、社会に出て失敗したには、自力で解決していけるような人間へと成長してもらいたいものです。

そうあるためには、お子さまの前を歩いていくことよりも、そっと脇道で見守ってあげる方が良いかもしれません。

photo by: fakelvis

子どもの学習と親の関わり方【2】

3つめのグラフは《「勉強しなさい」という声かけと子どもの学習時間の関係》となっています。
ここで、確認したいのは、小学校低学年までは、「勉強しなさい」という声かけをした方が、勉強時間が長くなる傾向にあるのに対して、中学生においては「勉強しなさい」と声かけをしない方が勉強時間が長いということです。

私は、これを子どもの自立の問題と考えます。
つまり、小学生低学年は、まだまだ親御さんが「育てる」という側面が強いのに対して、中学生くらいになると自立心が出てくるので、むしろ子どもの自立心を信用するくらいの方が子どもは自律的に学習するということではないかと思うのです。

さて、問題は、子どもが自律的に学習できるようになるのはいつ、そしてどのようにしてかということではないでしょうか。
グラフを見ると、小5~小6あたりが「我が子を信頼して手を離していく」時期なのではないかと思います。とすると、小4あたりから「なぜ勉強するのか」など、子どもが自律的に勉強できるような話をしていくと良いのかも知れません。

4つめは《子どもと将来や進路について話をする》グラフです。
はなまるゼミナールでは、コーチングに基づき、授業を進めております。したがって、「なぜ、勉強しなければならないのか」「宿題はなぜあるのか」などを適宜、子どもたちに話しながら、子どもたちの自立を促しております。先日も、小学6年生に「中学生に進学するにあたって」という講義をしました。子どもたちが、緊張感とともに顔つきが締まっておりました。また、保護者の方からも、「家に帰ってからいろいろと話をしてくれ、中学生になったらついて行けるかと心配だったが、少し安心した」などと言ってもらっております。

私は、子どもたちには、その段階に応じて、「将来や進路」の話はかならずする必要があると思っております。
さて、グラフにおいては、小5、小6においては8割近くの親御さんが子どもと「将来や進路」の話をしておられます。中3生では9割を越える方が話をしておられるのですが、中3になってからでは少し遅いのではないかと私は思います。

というのも、どこの高校に行くかで一定程度、人生の幅が決まってきます。当然、高校で人生のすべてが決まるわけではありません。しかし、高校によって合格する大学はだいたい決まっていることから考えると、中3までには一定の目標を設定した方が良いのではないかと思います。中3で「将来や進路」の話をし、「それなら大学に行かなきゃね、じゃあ○○高校に通おう」となったとしても、その時点で実力や成績が間に合っていれば良いですが、間に合っていなければ、なんのために「将来や進路」の話をしたか分かりません。まるで、「無理である確認」をしたかのようになってしまいます。

理想を言うと、小6あたりから段階を経ながら、中2くらいまで少しづつ「将来や進路」について話し合いながら、学力をつけていき、最終的に中学3年生では「夢や希望」に見合う高校を受験するという形が良いのではないかと思います。

最後のグラフは、《子どもと将来や進路について話す割合と学習時間との関係》です。
大変興味深いのは、若干の変動はあるものの、小学1年生~中学3年生において、すべての学年で「将来や進路」について話をしている子どもほど、学習時間が多いということです。

とりわけても注目すべきは、小4~小6にかけては「将来や進路」について話をすれば、子ども自身がきちんとそれを理解し、学習に励んでいる様子がうかがえます。うまく子どもたちが自律的に行動している証拠でしょう。

しかし、よく考えてみると、当たり前のことかも知れません。人間は、本来、みずからの頭で考え、行動する動物ですから、「頭ごなしにやりなさい」と言われるよりも、「理由が分かった上でみずからやる」方が人間の特性に合っていると思います。

ただ、中1、中2においては、学習時間は下がっています。この辺りで、さきに書いたように「勉強しなさい」と親御さんが言わざる得ない状況が分かります。本来なら、自分の「夢や希望」に向かって、さらに学習に励まないといけないのですが、なぜだか下がっております。

この原因の1つは、「話す内容」にあるのではないかと思っております。中学生というのは、義務教育が終わる学年であり、いわば「大人になるための練習期間」でもあります。ほとんどの中学生が高校進学する時代であるとは言え、希望すれば、就職することだってできるわけですし、実際にしょうなりといえども社会人になる子どももおります。周りの大人はそうした中学生を「大人への訓練生」として見る必要があります。

つまり、小学生に話す内容に比べ、中学生に話す内容は「子供だまし」のようなものではなく、現実的でないといけないと思うのです。しかし、むずかしいことは、あまりにも現実的すぎるのも良くありません。子どもたちは、まだまだ磨けば磨くほど光る原石なわけですから、「夢や希望」を残しつつ、リアルな「将来や進路」についての話をしてやる必要があるのではないでしょうか。ここで、「小学生のときに言っていた内容と変わらないこと」を言っていると、子どもたちに見透かされてしまい、逆効果になってしまうかも知れません。

ただ、中学生は思春期でもあり、むずかしい年頃です。親がいくら良いことを言っても、子どもは聞く耳を持たない年頃です。むしろ、こうした時期には、学校や塾の教師、あるいは親戚など、ちょっと距離の離れた人に「少し将来や進路」について話をしてもらった方が良い時期かも知れません。

ですが、グラフを見る限り、中学3年生になると、また、学習意欲に燃え、勉強するわけですから、中1、中2で「反抗的になった」と嘆くのではなく、もう少し長い目で見ていく必要があると思います。

《1へ戻る》