志望校、将来を決めるために

Let's Fly!先日、中学2年生に「なぜ、高校に通うのか」というガイダンスをおこないました。

「みんなが行くから行く」という没主体的な姿勢ではなく、主体的に高校に通うことの目的意識を持って、あと1年半の勉強に励んで欲しいからです。

さて、このテーマでとても簡潔にまとめられているブログ記事があったので、紹介したいと思います。

志望校が定まらない高校2年生に「この1行」
Point1. どういう社会を創りたいかを考える。
Point2. 様々な年齢や立場の人とふれあって、お話を聞いてみましょう。
Point3. 生活を豊かにするチカラをつけるための受験勉強。

として、志望校を決めるための3つのポイントを上げておられます。

当然のことながら、私は、この第1のポイントがとても重要であると考えます。さらにいうなら、「自分は社会に役立つ」こととするんだということが大切であると思っております。

先に書いたガイダンスでは、子どもたちにリアルに感じてもらうために、仕事や収入という側面を中心に話をしました。しかし、「自分1人が金を稼いで裕福になればいい」というのはなく、社会の中で自分が位置づいて初めてやりがいや生きがいができてくるのではないかと思うのです。
また、みずからが社会の中で位置づいていくためには、多くの人々と話をして、「生の学習」をすることも大切であると思います。勉強は、何も教科書だけではありません。多くの「先輩」から、その経験を聞くことは、大変貴重な「学び」に他なりません。

そして、当然のことながら、自らの進むべき道を実現化していくためには、やはり「教科書」の勉強も必要になってきます。もちろん、この勉強は、絶対必要であるとは思いません。中学しか出ていなくても、社会に大きく貢献する人もおられます。しかし、だれもがそのようにできるということもまたないでしょう。そうであれば、勉強して、いろいろな知識や考え方を学び、応用できる力をつけることが「生きていく力」「世の中で貢献できる力」を養う近道になると思います。

5年後、10年後、社会に出て行く子どもたちに、一回りでも二回りでも、たくましく大きく育って欲しいと思っております。

photo by: Hamed Saber

大学入試の現状~推薦入試を狙う

【私立大46%が定員割れ 酒井法子入学の私大は今春入学者ゼロ】

大学全入時代と言われておりますが、上記の記事によると、現時点での最新の調査では「私立大学の46%が定員割れ」だそうです。

しかし、こうした状況は、すでに高校入試においても、中学入試においても「当然」のようになっております。それは、子どもの数が年を追うごとに減っている上に、学校が新しくできているということがあります。先月も、西大和学園が吹田市に4年生大学を新設すると発表したばかりです。

入学者がいない大学や募集停止をする大学がある一方で、新設の大学があるというのは、なんとも理解できませんが、いろいろと事情もあるのでしょう。

さて、保護者の立場として、この記事の中に、興味深い1文があります。  「実は今、関東や関西の上位校といわれる大学でも、推薦枠が余っています」  という内容です。  激しく定員割れを起こしている中で、推薦枠すら満たさないというのは、想像に難くありません。

2011年度の選抜方式別の大学入学者のグラフが次のようになります。

大学入学者のうち、推薦入試とAO入試で44%の生徒が入学していることが分かります。つまり、まじめに高校に通ってさえいれば、比較的楽に大学に合格し、通えるわけです。

国立、公立、私立大学別に、見てみると、次のようになります。

国立大学では、推薦+AOで15%ですから、まだまだ一般入試による入学者が多いことが分かります。しかし、それでも親御さんの世代からすると、入学者の1/7が推薦入試で入学というのは驚きなのではないでしょうか。

また、公立でも、一般入試の割合が多いものの、国立大学に比べると、推薦+AOの割合が増えており、25%つまり入学者の1/4が一般入試を受けずに入学しているのです。(グラフはクリックで拡大します)

さらに、私立大学では、入学者の半数以上が推薦+AOで入学していることが分かります。つまり、私立大学では、半数以上の生徒が一般入試を経ずに、推薦またはAO入試で早々と大学入学を決めているのです。こうした傾向は、まだまだ増加していくものと思われます。(グラフはクリックで拡大します)

その根拠は、(1)定員割れしている私立大学が半数近くある、(2)大学の数は年々増えている、(3)大学受験予定者はまだまだ減っていくことにあります。

こうしたことを考えると、これから大学入試を迎えるためには、早めに行きたい大学や学部を決めていくこと、そしてまじめに高校に通い、推薦に必要な「評定」をしっかりととっておくこと。そうしておけば、比較的楽に、春の入試より早く志望大学に合格できるかもしれません。


たとえ就活に失敗しても楽観的に生き抜こう

8日付けの読売新聞の記事に「就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に」という記事が出ていました。

就職活動に失敗した10~20歳代の若者の自殺が150人にもなっているというのです。

たしかに、就職活動に失敗するということは大変落ち込むことだと思います。自分という存在が社会に認められていないような気分になります。当の本人でしか分からない辛さであるとはいえ、やはり辛いことです。

若い頃、就活に失敗した後輩から、その辛い気持ちを相談されたことがありました。「自分は、社会に必要がないのか、会社にとって自分という人間は無意味なのか」とかなり落ち込んでいました。しかし、私は、後輩にこう言ったのです。

「会社にとっては、その会社の現時点で欲しい人材を求めるのであって、君自身の能力の問題ではない。だから、落ち込む必要なんかない」

後輩は、自分の就活が失敗したことが自分の能力や人間性に問題があると悩んでいたのですが、考えを切り替えることができたようでした。翌年、無事に就職が決まりました。

もし、悩んでいる若い人がいるなら、私は「就職だけがすべてじゃない、それで君の能力が決まるわけではない」といいたいと思います。たしかに、友人などの就職が決まっていく中、自分が決まらなければ焦ってくると思います。そして、その焦りがやがて自己否定につながっていくこともあると思います。自分というのはこんなにもダメな存在だったのかと責めてしまうこともあるでしょう。

しかし、長い人生において、就職などはごく一部の側面にすぎないのです。さらにいうと、自分を落とした会社があなたを必要としなかっただけで、他にあなたを必要とする社会など本当はたくさんあるのです。本当にたくさんあるのか、それは今、あなたの目の前に見えていないだけで、やはりたくさんあります。

いわゆる一流といわれる企業だけが、働く場ではありませんし、もっというと、企業だけが活躍の場ではありません。さまざまな社会的集団がそれぞれの役割を果たす中で、この世の中が成り立っていることを考えると、あなたが役立たない社会などあり得ません。

たとえ就活に失敗しても、楽観的に生き抜こう。そうすれば、かならずあなたを必要とする社会に巡り会い、そこであなたは光り輝いていくはずです。


「本人の前を保護者が歩いていて困る」

ベネッセの教育情報サイトに安田理さんという方が、「本人の前を保護者が歩いていて困る」という記事を書いておられました。

日本社会のあり方がかなりのスピードで変化し、将来の社会像も不透明になっています。そんな中、さまざまな場面で格差も広がってきております。それだけに、保護者の方々は、いろいろとしらべたり、考えたりして、我が子の将来を少しでも安定したものにしてあげるためにご苦労をされています。

しかし、そうしたご苦労が、実は「子どもたちがその成長に合わせて、苦労したりする機会を奪っていく」現実を危惧されています。安田さんはこう言います。

こうして保護者のかたが前を歩き、保護者のかたが決めて、お子さまがその敷かれたレールの上を素直に歩いた時に、下のような大学生になってしまうことが多いのです。

・履修届けを一人では出せない
・友達づくりも大学がお膳立てしないとできない
・課題研究では、何をやっていいかわからない
・個人では優秀でも、グループで協力することが苦手で、グループ研究ができない
冒頭に述べたような社会状況から、つい心配して手を出したくなります。しかし、それはこれまでにお話ししたように、お子さまを一人前の大人にするうえではまったく逆効果なのです。

現代の大学生の現状であると思いますが、やはりこうした学生が多いことには危惧せざるを得ません。私も大学生になった教え子と話をしていて驚いたことがありました。それは、大学側が学生に自己紹介カードを書かせて、冊子をつくり、それを元に「友だちをつくる」お膳立てをし、さらにはコンパまで決めるというのです。それを教えてくれた彼女は、「なんで、こんなことして、友だちをつくらなあかんねん」と言っていましたが、本当にそうです。しかし、逆に言うと、大学側がこうした工夫をしてあげないと、友だちすら作ることができない、あるいは同級生とのコミュニケーションがとれなくなってきた学生が増えてきたということなのでしょう。

しかし、大変なのは、この学生は数年後、就職して社会に出るわけです。大学に「友だちづくり」までお膳立てされてきた学生に、本当に会社勤めが勤めるのでしょうか。はなはだ疑問です。いったん、就職をすることはできても、会社が「使い物にならない」と判断した人間は「みずから辞めざるえない」ような仕事をさせて退職に追いやります。退職に追いやられた者は、「崖から突き落とされたライオン」のようにみずから這い上がってこなければなりません。しかし、目の前にある崖が見えることができれば、苦労しながらも這い上がってこれるでしょうけれど、「なぜ、突き落とされたか分からない」場合は、次の会社でも同じように「突き落とされる」かも知れません。

子どもたちには、中学、高校くらいの間で、できるだけ多くの社会経験、とりわけ様々な苦労や失敗などを繰り返しながら、社会に出て失敗したには、自力で解決していけるような人間へと成長してもらいたいものです。

そうあるためには、お子さまの前を歩いていくことよりも、そっと脇道で見守ってあげる方が良いかもしれません。

photo by: fakelvis

子どもの学習と親の関わり方【2】

3つめのグラフは《「勉強しなさい」という声かけと子どもの学習時間の関係》となっています。
ここで、確認したいのは、小学校低学年までは、「勉強しなさい」という声かけをした方が、勉強時間が長くなる傾向にあるのに対して、中学生においては「勉強しなさい」と声かけをしない方が勉強時間が長いということです。

私は、これを子どもの自立の問題と考えます。
つまり、小学生低学年は、まだまだ親御さんが「育てる」という側面が強いのに対して、中学生くらいになると自立心が出てくるので、むしろ子どもの自立心を信用するくらいの方が子どもは自律的に学習するということではないかと思うのです。

さて、問題は、子どもが自律的に学習できるようになるのはいつ、そしてどのようにしてかということではないでしょうか。
グラフを見ると、小5~小6あたりが「我が子を信頼して手を離していく」時期なのではないかと思います。とすると、小4あたりから「なぜ勉強するのか」など、子どもが自律的に勉強できるような話をしていくと良いのかも知れません。

4つめは《子どもと将来や進路について話をする》グラフです。
はなまるゼミナールでは、コーチングに基づき、授業を進めております。したがって、「なぜ、勉強しなければならないのか」「宿題はなぜあるのか」などを適宜、子どもたちに話しながら、子どもたちの自立を促しております。先日も、小学6年生に「中学生に進学するにあたって」という講義をしました。子どもたちが、緊張感とともに顔つきが締まっておりました。また、保護者の方からも、「家に帰ってからいろいろと話をしてくれ、中学生になったらついて行けるかと心配だったが、少し安心した」などと言ってもらっております。

私は、子どもたちには、その段階に応じて、「将来や進路」の話はかならずする必要があると思っております。
さて、グラフにおいては、小5、小6においては8割近くの親御さんが子どもと「将来や進路」の話をしておられます。中3生では9割を越える方が話をしておられるのですが、中3になってからでは少し遅いのではないかと私は思います。

というのも、どこの高校に行くかで一定程度、人生の幅が決まってきます。当然、高校で人生のすべてが決まるわけではありません。しかし、高校によって合格する大学はだいたい決まっていることから考えると、中3までには一定の目標を設定した方が良いのではないかと思います。中3で「将来や進路」の話をし、「それなら大学に行かなきゃね、じゃあ○○高校に通おう」となったとしても、その時点で実力や成績が間に合っていれば良いですが、間に合っていなければ、なんのために「将来や進路」の話をしたか分かりません。まるで、「無理である確認」をしたかのようになってしまいます。

理想を言うと、小6あたりから段階を経ながら、中2くらいまで少しづつ「将来や進路」について話し合いながら、学力をつけていき、最終的に中学3年生では「夢や希望」に見合う高校を受験するという形が良いのではないかと思います。

最後のグラフは、《子どもと将来や進路について話す割合と学習時間との関係》です。
大変興味深いのは、若干の変動はあるものの、小学1年生~中学3年生において、すべての学年で「将来や進路」について話をしている子どもほど、学習時間が多いということです。

とりわけても注目すべきは、小4~小6にかけては「将来や進路」について話をすれば、子ども自身がきちんとそれを理解し、学習に励んでいる様子がうかがえます。うまく子どもたちが自律的に行動している証拠でしょう。

しかし、よく考えてみると、当たり前のことかも知れません。人間は、本来、みずからの頭で考え、行動する動物ですから、「頭ごなしにやりなさい」と言われるよりも、「理由が分かった上でみずからやる」方が人間の特性に合っていると思います。

ただ、中1、中2においては、学習時間は下がっています。この辺りで、さきに書いたように「勉強しなさい」と親御さんが言わざる得ない状況が分かります。本来なら、自分の「夢や希望」に向かって、さらに学習に励まないといけないのですが、なぜだか下がっております。

この原因の1つは、「話す内容」にあるのではないかと思っております。中学生というのは、義務教育が終わる学年であり、いわば「大人になるための練習期間」でもあります。ほとんどの中学生が高校進学する時代であるとは言え、希望すれば、就職することだってできるわけですし、実際にしょうなりといえども社会人になる子どももおります。周りの大人はそうした中学生を「大人への訓練生」として見る必要があります。

つまり、小学生に話す内容に比べ、中学生に話す内容は「子供だまし」のようなものではなく、現実的でないといけないと思うのです。しかし、むずかしいことは、あまりにも現実的すぎるのも良くありません。子どもたちは、まだまだ磨けば磨くほど光る原石なわけですから、「夢や希望」を残しつつ、リアルな「将来や進路」についての話をしてやる必要があるのではないでしょうか。ここで、「小学生のときに言っていた内容と変わらないこと」を言っていると、子どもたちに見透かされてしまい、逆効果になってしまうかも知れません。

ただ、中学生は思春期でもあり、むずかしい年頃です。親がいくら良いことを言っても、子どもは聞く耳を持たない年頃です。むしろ、こうした時期には、学校や塾の教師、あるいは親戚など、ちょっと距離の離れた人に「少し将来や進路」について話をしてもらった方が良い時期かも知れません。

ですが、グラフを見る限り、中学3年生になると、また、学習意欲に燃え、勉強するわけですから、中1、中2で「反抗的になった」と嘆くのではなく、もう少し長い目で見ていく必要があると思います。

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子どもの学習と親の関わり方【1】

Benesse教育研究開発センターが、「第4回子育て生活基本調査」の結果から、「子どもの学習面と親の関わり方」をまとめています。興味深い内容ですので、少し考察したいと思います。(グラフはクリックで拡大します)

 まず、《子どもの勉強時間と、母親が子どもの勉強を見る時間のグラフ》からです。
このグラフから、私が注目した点は、小学5年生から学習量がグッと増えて、中学2年生まで、その学習量は変わらないということです。
小5といえば、中学受験生が本格的に学習を始めるということもあると思いますが、本質的には、小学5年生からの学習はかなり本格的になり、それなりに時間をかけないといけないということであると思います。

確かに、国語にしても、算数にしても、内容がより抽象的になり、むずかしくなります社会も理科も本格的な学習になります。小5と小6の学習がやはり重要なポイントであるということでしょう。

さらに、小学5年生から、しっかりと学習をつんでいれば、中学1年と2年はその延長で一定乗り切れるということでしょう。1日75分前後の勉強時間というのは、そう悪くはないと思います。ただ、小学校時代と比べ、教科も内容も増えることも考えると、もう少し学習時間があっても良いかなとも思いますが、大切なことは時間ではなく、内容・質ですから、きちんと計画的に毎日75分ほど学習していれば、かならず力になるはずです。

また、3つめに、中学3年生になると、学習時間がグンと増加しています。だいたい、毎日2時間くらいは勉強すると考えても良いのではないでしょうか。以前、教室責任者として勤めていた教室では、中学3年生は本当によく勉強していました。秋以降ですと、夕方から塾が閉まる22時まで、食事の時間はいったん帰るものの、4~5時間は勉強していたのではないでしょうか。

次に、母親が子どもの勉強を見る時間についてです。
小学1年~4年までは、ほぼ1日30分くらいは母親がついて子どもの勉強をみていることが分かります。当然のことながら、学年が進むにつれ、子どもの学習時間は増えますから、小学1年生では「子どもの学習時間」と「母親が見る時間」がほぼ同じなのに対して、小学4年生くらいになると、親が見る時間とほぼ同じ時間を子どもが1人で勉強しています。

さらに学年が上がるにつれて、母親が子どもの勉強を見る時間は減少していっています。

《学習面での母親の関わりのグラフ》を見てみましょう。

面白いことに、小学1年~6年と学年が上がるにつれ、「勉強しなさい」という声かけが減っていきますが、中学生になるとまた増えています。やはり、このあたりに母親の子どもに対する心配が現れています(右のグラフの青い線)。

しかし、逆に言うと、少し大人びてきた子どもたちの「親に対する反発」も見られるのではないでしょうか。
さらに、学校の宿題と夏休みの宿題を手伝うかどうかのグラフ(赤い線)がありますが、学年が上がるにつれ手伝う割合が減っているものの、中学3年生の夏休みの宿題を手伝う母親が2割以上おられるのが気にかかります。受験を控えた夏休みで、宿題の量はとても多いことは想像できるのですが、ここは親御さんとしてはグッとこらえて、子ども自身にやらせてみることが必要ではないかと思ったりします。というのも、宿題での苦労はやはりした方が良いと思うからです。無理に苦労する必要はないとは思いますが、それでも子どものうちに一生懸命頭を悩ましたり、同じ問題を何十分も考えたり、いろいろな方法でしらべたりする経験も、大人になっていく上で貴重な経験と考えます。

《つづく》


悔しい思いを胸にへこたれずにがんばり抜く

大人になっていくということは、自分で判断し行動できるという“自由”が広がる反面、自分の行動に対しては“責任”が大きくなってきます。楽しいことも増えると当時に、思わぬ所から「責任」を問われ、驚いたり悔しい思いをしたりすることも増えてきたりします。

しかし、そういったことにも耐えながら、誠実に対処し乗り切っていかなければなりません。中学、高校時代というのは、まさにそのための訓練期間ではないかと思ったりします。

子どもに取ってみれば、「自分は自分。生まれたときからまったく同じ自分である」という感覚かも知れませんが、周りの大人=親や教師などからすれば、体も大きくなり、言葉も生意気になってくると、さらに成長を促そうと励まします。子どもは、ドンドンと成長しますから、親や教師はそれに見合う、あるいは現時点の子どものレベルよりも上のレベルを要求したりします。すると、それが子どもたちにとっては、「理不尽」な要求に映ったりすることがあります。

しかし、私は、子どもには少々「理不尽」に映っても、過大な要求や期待をすべきであると考えます。もちろん、とんでもないほどの過大な要求や期待は子どもをつぶしてしまいます。ですが、過大な要求や期待は子どもへの愛情の表れであり、ありのままの子どもが現時点でできることだけを要求していたのでは、子どもの伸びしろなどたかだか知れてしまいます。

子どもたちは成長に伴って、楽しいことばかりではなく、悔しい思いをすることも増えると思います。しかし、そうしたことに負けず、いつもたくましくがんばり抜いていってもらいたいと願っています。

photo by: ILRI

困難に直面するのは、とっても素晴らしいこと!

Heart
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我が子を困難に直面させたくないというのが、親心ではないでしょうか。そのため、親は予防線を張り、我が子が困難に直面しないようにあらかじめ注意をしたりします。
しかし、どうでしょうか。私は、一定程度、子どもは困難に直面すべきであると思うのです。それは、成長したときに「真の困難」に出会ったときの訓練として、また親がいる、まわりに大人がいる間に「困難」に対する耐性を今のうちに身につけておいた方がいいのではないかと思うのです。
私は、子どもたちによく言うことがあります。

テスト勉強なんて、簡単なんだ。テストに出ることなんて決まっているんだから。でも、君たちが大人になってから出会う様々な問題には「答え」がない。その答えが書いてある教科書なんてない。だから、今、いろいろ勉強したり、経験したりして、学んでいるんだ

できれば、子どもたちには、いろんな「困難に直面」してもらい、できれば自力で解決していってほしいと思っております。そうした経験が、子どもたちを大きく強く鍛え上げ、将来、大変な困難に直面しても乗り越えていける力になると信じております。


ふところの広い子どもに育って欲しい

Niños de Tilcara saliendo del cole
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授業をしておりますと、ときおり外から少年の奇声が聞こえることがあります。
すると、小学生が「あっ、○○(名前)や」と笑い出したりすることがあるのです。

そういう場面を何度か見てきた私は、疑問に思い、

「その子は学校の授業中でも叫んだりするの?」

と聞いたところ、そうだと答えます。で、子どもたちの話題は彼の話で盛り上がります。

そんな中、生徒の1人がその「奇声の彼」を否定するようなことをいったので、私がいさめると、他の子が

「なあ、先生、文化やんな」

と私の意見をフォローしてくれたのです。私は思わず「その通り!」と叫んでしまいました。

かつて国語の授業で「個々の文化」についての問題を解いたことがあったのですが、その時に、

「相手の文化を好きになれなくても、認めなくてはいけない。それぞれの家、家族、地域、民族、国家、さまざまな文化が存在する。たとえば、君たちの家では当たり前にやっていることでも、他の人からすると《そんなの変だ》ということもある。自分の家でよく食べるものでも、他の人は食べたことのないものだってある。それを頭から『おかしい!』といわれたら、腹が立つやろ。だから、たとえ自分が理解できなくても、相手の文化は尊重してあげないとね」

という話をしたことがあったのです。 この話を覚えていてくれたのでしょう。とてもうれしくなりました。

世界の経済はますます国際化していくでしょう。先にタイでたいへんな洪水がありましたが、その報道を見ていると、本当にたくさんの日本企業と日本人がタイで働いているんですね。大企業だけでなく、中小企業もタイに工場を持っていたりします。この洪水をきっかけに、一部の生産を日本に持ってくる企業もあるそうですが、そうするとその生産に関わる日本人技術者がいないために、タイ人技術者を日本に連れてきて、日本人に技術を伝えていく必要があるそうです。

今後、ますます国内に外国人が増え、ふれあう機会、あるいはともに学んだり、仕事する機会が増えるでしょう。ひょっとすると、上司が外国人だってこともあるかもしれません。

拡大する国際化社会の中で、子どもたちには、自らの文化を大切にしながら、他の人の文化も大切にできるような「ふところの広い」心を持ってもらいたいと思っております。


大切な「何か」を見つけるために

作者不明、出所不明で最近、ネットに出回っているちょっと考えさせる話を見つけました。

ある教授が「クイズをはじめよう!」と言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた

その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。

「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい。」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。

そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。

「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう。」と答えた。

教授は「そうだ!」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。

「この壺はこれでいっぱいになったか?」 学生は声を揃えて、「いや。」と答えた。

教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ
彼は学生に最後の質問を投げかける。

「僕が何を言いたいのかわかるだろうか?」

一人の学生が手を挙げた。

「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込む事は可能だということです。」

「それは違う!」と教授は言った。

「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ。」

君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。

それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、 家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。

もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。

そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。

現代社会において、大人も子どもも、さまざまな情報に囲まれています。その雑多な情報に、振り回されることもたくさんあります。
しかし、自分にとって、他愛もない、さほど重要でないことに、心を奪われたり、時間をとられたりしていては、「重要な何か」が自分の中に入ってくる余地がなくなってしまうでしょう。
ところで、子どもたちにとって、「重要な何か」とかいったいなんでしょうか
勉強することは、重要なことの1つであるとは思いますが、それでも一概に「最も重要なことはこれだ!」とは言えないのではないでしょうか。ある意味、ふり返ってみてしか分からないことも多いと思います。しかし、「最も重要なこと」が見つかったときのために、あるいは見つけるために、他愛もないささいなことにあまり心を奪われない、時間をとられないよう意識することが大切なのかもしれません。