学ぶことは、権利であり義務である

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7月13日付けの『毎日新聞』で、奈良県夜間中学生徒会総会が開かれたという記事がありました。

私は、学ぶということには2つの側面があると思っています。

1つは権利としての側面です。日本国憲法を持ち出すまでもなく、教育を受けることができるというのは万人に認められた権利です。教育を受けなければ見えてこなかったものも、教育を受ければ見えてくるということがあります。そうすると、自分の人生もより可能性を開くことになります。お父さんやお母さん、あるいは学校の先生から星座の話を聞いて、夜空にうかび星が身近に感じることはけっこうあることではないでしょうか。また、逆に教育があるからこそ、人にだまされたりして悲しい思いをすることも少なくなるのではないでしょうか。そして、何よりも最低限の教育を受け、社会の一員として存在していくということがもっとも大きな意味であるように思います。

2つめに、義務としての側面です。子どもは、将来、社会に出て活躍していくために、義務教育を受けるわけですが、大人にも学ぶ義務があるように思います。それは、自分がより幸せになるために学ぶ、次世代の子どもによい社会を残していくために学ぶ、さらによい社会を建設していくために学ぶという側面です。学ぶことで、いろいろ発見することができ、人生もより楽しいものになるでしょう。

私は、子どもたちには、僕たちは死ぬまで学び続けるんだよといいます。学ぶということを「学校」に縮めてしまうと、たとえば高校入試がそれ自体が目的化してしまったりします。中3生と受験勉強をがんばり、合格したのち、「高校に入ってもがんばるんだよ」なんていうと、「え~、まだ勉強するの」なんていう生徒が時々います。しかし、当然のことですが、入試はひとつの区切りであり、目的ではありません。とりわけても、高校中退の割合が2%を超えると聞くと、やはり、高校に入学することが目的ではなく、そこから先を見据えていくことがとても大切であると思います。だから、子どもたちにははじめから、死ぬまで勉強なんだといっているわけです。

さて、何らかの事情が、困難な状況があって、学べなかった人たちが、「学びたい」と夜間中学校で学ぶ。すばらしいことであると思います。近年、夜間中学校の役割は終えた、あるいはきわめて小さくなってきたという風潮があるように思えます。しかし、私はそうは思いません。現代社会は、物質的にはとても豊かになっている反面、人間社会はより複雑になり、学べなかった人は存在し続けると思います。それを「教育を受けなかった」個人の責任として投げ捨てるのではなく、社会を建設する一員として包み込める「大人の義務教育」として、夜間中学校は必要だと思うわけです。

大人も子どもも、社会で暮らし、人との関わりの中で生きている以上、教育を受けることはなくてはならないことですし、だれもその権利を奪うことはできないと思っております。


計算は速くなったが文章題はダメ

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塾講師を20年以上続けてきて、入塾の際に保護者の方からよく聞くのが、

うちの子は計算は速いのですが、文章題はできない

ということです。

教育といったときに、よく「読み書きそろばん」といったことがいわれますが、どうも計算力をつけることだけが突出して目立っているような気がします。しかし、むしろこれからの時代、計算力より「読み書き」の方が大切なのでは思っています。

私は、理系でしたから、学生時代、高価なパーソナルコンピュータを大学で使わせてもらっていました。もちろん、個人で持っていた人もいましたが、1台20~30万円はしていたでしょう。しかし、今はちがいます。とても性能の良いPCが数万円で買える時代です。そんな時代、会社に入れば、会計の仕事のほとんどはパソコンがするようになってしまいました。そんな時代に、人間が計算することの意味はどれほどあるのでしょうか。計算よりも、むしろ「読み書き」が重要ではないかというのは、そういう意味です。もちろん、計算ができることは必要です。しかし、相対的に必要性は薄れてきているのではないかと思うのです。

しかし、時代の流れとは逆に、世間を見回してみると、ただ計算練習を反復練習させる塾もたくさん存在しています。たしかに初期段階においては、「習うより慣れろ」で反復演習させることに意味はあります。しかし、計算方法が身についてしまえば、やはり文章題をしっかり読め立式ができること、そしてその立式の意味や計算の意味などをしっかりと考えさせる方が、子どもの能力を磨き上げるという意味でも、子どもの将来を考える意味でもとても大切だと思うのです。

今までたくさんの「秀才」を見てきましたが、そのうち、半数くらいは塾に来る前に、「通信教育」をやっていたという共通点がありました。なぜだろうと考えたこともあったのですが、やはり自分で考えるという習慣が子どもを大きく鍛え上げているのではないかと思っています。演習量や計算スピードなどでは、反復演習の塾の子どもには負けているにもかかわらず、正答率や応用力では圧倒的に強いのです。もちろん、通信教育というのはなかなか続けるのが大変なのですが。


子どもを集団に中で育てる

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私は、子どもは集団の中で育つし、教育でいうと集団の中で育てるべきだと思っています。

しかし、そこで問題になってくるのが、子どもの個性です。私は、子どもをひとつの枠に縛って教えるのは望みません。たしかに、教師のテクニックによってあみだされた「こうすればまちがわない」という方法をタイトに教え込めば、短期間に点数的な向上があります。点数だけ見れば、保護者は「ああ、塾に入れて良かった」みたいな評価につながるでしょう。

しかし、それでは、子どもの自主性や自立性、なにより子どもの個性を奪ってしまうことになりかねません。

学年が小さいほど、子どもたちの差はとても大きいものがあります。4月生まれと2月生まれでは、体格や語彙力など、かなりの差がありますし、第1子か第3子かということでも差が生じるでしょう。また、それぞれの家庭における教育方針などの差もあって当然です。同じ学年であっても、そうしたさまざまな差があり、個性があるのです。

私は、子どもたちの差を個性として、そしてその個性をできれば伸ばす方向で指導できればとつねに思っております。

さて、個性を生かす、伸ばすなどというのは、とても耳障りの良い言葉ですが、じつはとても難しいものがあります。それぞれの個性に応じていくと、指導に差が生まれるからです。私は、それは当然のことであると思っています。しかし、そうした個性に応じた指導の変化が「ひいき」だとか「自分だけ」などととらえられてしまい、それがクローズアップされてしまうと大変なことになります。

10人、20人、あるいは30人の子どもたちに同じ言葉を投げかけ、同じように接するなんてことはとても簡単なことです。しかし、集団教育において、そんなことはあり得ません。簡単に言うと、家庭においても、兄弟姉妹で同じ言葉や同じ態度で接することができるでしょうか。無理なんですね。もちろん、子どもたちをペットかロボットのように感じていれば可能かもしれませんが。

しかし、そうした子どもの個性に応じた指導の変化を、「ちがい」ということだけをとらえられてしまい、クローズアップされてしまうと、集団指導の良さが奪われてしまいます。

2年ほど前に、ある女子に突然倒れてしまうという症状が出たことがありました。医者によると、思春期の女子には割とあることだそうで、私は、授業において車いすで受講することを認めました。母親はとても他の子に迷惑がかかるということでとても恐縮されていましたが、色々な子どもから学ぶのが集団指導の良さだからと、母親を説得しました。まさに特別扱いです。授業中に彼女は突然パタと意識を失います。そのままならまだしも、気を失いながら、涙をぽろぽろと流すこともありました。そういう度に教室が少しざわついたりするのですが、私は教室責任者として良しとしました。なぜなら、色々な子どもがいる、そこから子どもは色々と学び成長すると思っていたからです。そうして半年後、症状も治まり、一昨年、無事に進学校に合格することができました。

また、昨年は、片目がほとんどみえず、残っている眼の方も視野がほとんど失われている子どもの指導もおこないました。母親との合意の上で、彼女には特別厳しく接しました。なぜなら、小学校までは、そういう境遇のため、いろいろな場面で特別扱いされていたんですね。しかし、中学に入学し、母親としては「障害者としてい生きていくのではなく、ごく普通の子として生きていってほしい」という思いを打ち明けられ、「それならば今までの甘えた感覚から抜け出させましょう」というになったのです。彼女は、かろうじて見える1つの眼だけで、教科書やノート、白板の文字を追っかけるのですが、彼女の視野はわずか2cm角くらいしかないのです。だから、教科書やノートの字を探すのにとても時間がかかるのです。しかし、そういうハンデを乗り越えていかないと、高校入試はできませんし、大学、就職も厳しいものになります。とうぜん、“普通”に高校受験し、高校生になって勉強ができるようになるために、指導をしていきました。彼女にとっては、とても厳しかったと思います。しかし、そうした彼女に対するあつかいは、他の生徒にとっては特別扱いに見えた子もいたかもしれません。

こうした事柄は、すこし特殊な例かもしれません。しかし、私にとっては、今、はなゼミに通ってくれている子どもたちもまったく同じです。1人ひとりの子どもはまさに世界で1人の個性を持った人間なんです、けっして大げさでも何でもありません、当たり前なんです。授業中に失神することはなくても、あるいは両目が使えていても、AさんにはAさん独特の見方があったり、BくんにはBくんだけの癖があったりします。あるいはCさんにはCさんの感じ方見方があるのです。それらの子どもの1人ひとりに私は、“特別扱い”しています。そして、ほかの子どもたちはそれを見て、学んでもらえればと思っているのです。


子どもは集団で育つ

Kids in Kampong Thom
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はなゼミが集団指導にこだわるのは、

子どもは集団の中で育つ

という思いがあるからです。

お子さまが幼い頃に、こういう経験はないでしょうか。

1人目より2人目、3人目の方が言葉を覚えるのが早かった

同年齢の子どもと遊ぶと言葉を覚えやすかった

私は、大人や教師が単独で教えるよりも、子ども同士の中で学ぶという方がよりたくさんのことを影響し合って学ぶと思います。そして、はなゼミでの指導はそうしたことを利用します。

たとえば、質疑応答で、答えさせた子どものいった言葉を授業で使いますし、間違えた解答を利用して授業を進めたりします。教師が教え込むことより、実は子どもが言った言葉や間違えた内容などから他の子も学ぶのです。

教師の言葉からだけでなく、いっしょに学んでいる子どもたちからも学ぶというのが、はなゼミの方針です。


イチローの作文


私は、野球は見ません。しかし、オリックスで活躍し、米メジャーで活躍するイチローは、ほんとうにすごい人だと思っております。
そのイチローが小学6年生の時に書いた作文を子どもたちに紹介しました。
スポーツや芸術分野で成功することはなかなか難しいことですが、しかし、夢を持ち続け、それに向かって努力することはすばらしいことであると思います。そして、思いが強いほど、その思いは実現するのです。

 

 

「僕の夢」 豊山小学校六年二組  鈴木一朗

僕の夢は一流のプロ野球選手になることです。
そのためには中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。活躍できるようになるためには練習が必要です。 僕は三才の時から練習を始めています。 三才から七才では半年くらいやっていましたが、三年生の時から今までは三百六十五日中三百六十日は激しい練習をやっています。
だから、一週間中で友達と遊べる時間は五、六時間です。 そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球選手になると思います。 そして、その球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズです。 ドラフト一位で契約金は一億円以上が目標です。 僕が自信のあるのは投手か打撃です。
去年の夏、僕たちは全国大会に行きました。 そして、ほとんどの投手を見てきましたが自分が大会ナンバーワン選手と確信でき、打撃では県大会四試合のうちホームラン三本を打てました。 そして、全体を通した打率は五割八分三厘でした。 このように自分でも納得のいく成績でした。 そして、僕たちは一年間負け知らずで野球ができました。 だから、この調子でこれからもがんばります。 そして、僕が一流の選手になって試合に出られるようになったら、お世話になった人に招待券を配って応援してもらうのも夢の一つです。 とにかく一番大きな夢は野球選手になることです。


ほめられるとテングになってしまう子ども?

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私の指導方針は、子どもを評価しつつ、自律的に学習してもらうためのコーチング理論に基づいております。

保護者の方にその旨を説明していると、ときどきこのようにおっしゃる方がおられます。

「うちの子は、ほめるとテングになるので、ビシビシ厳しく指導してください」

私は、ほめることとテングになることは全く別のことだと思っています。もし、本当にテングになっているのであれば、それはほめられたからではなくて、申し訳ありませんが、“ほめるとところ”が間違っているのです。

小学校や中学校の勉強などは、さほどむずかしいものではありません。すこしばかり勘の良い子であれば、そんなに勉強しなくても、けっこう点数がとれたりします。そんな子に

「うわあ、いい点とれたね。良かったね」

などとほめてもダメなのです。なぜなら、その子はさほどがんばらなくても、点数はとれるのであり、点数だけをほめてしまえば、それは同時にがんばらないことへの「評価」になってしまうからです。

あくまでも子どもを評価する場合、その過程を見なければなりません。どれだけがんばったのかということです。もちろん、がんばり具合の判断は、その結果である点数に関わってきますが、重要なのは、〈1〉がんばり具合 〈2〉結果としての点数であるべきです。

結果のみを「評価」=ほめていると、その子が高校、大学、あるいは社会に出たときにドロップアウトする危険性が出てきます。先にも書いたように、小中学校の勉強などさほど勉強しなくても、すこし勘のいい子ならできるのです。しかし、そんな子どもでも、高校の勉強は違います。しっかりと勉強しないと、やはり結果はついてきません。さらに、結果ばかりを重視していると社会に出たときにどうでしょうか。大人の世界は、結果といっても点数化されるわけではありません。社会からの評価はやはり努力した上で、しっかりとした結果を出すことにあります。努力もせずに、結果だけを求めることなどできませんし、その結果にしても学生時代のような「明らかな」ものではないことが多いからです。

子ども時代は、社会で通用するための訓練であると思っております。テストで100点取ることは確かに立派であると思いますが、大切なことはどのようにして100点をとったのかということではないでしょうか。

最後に、大学時代の苦い友人の思い出を披露しておきたいと思います。

とある友人がいたのですが、その彼がいつも口癖のように言っていたのが

「俺は灘中学校を落ちた」

ということでした。不合格を卑下しているのではありません。不合格ではあるものの、灘中学校を受験するほど、自分は偉かったのだと言うことを言っていたのです。大学では、地道な研究や調査、レポート活動などが問われます。明確な点数としての結果は出てきません。そんな中、彼は、ほとんど授業に出なくなります。2年ほど留年した後、アパートにこもりっきりになりました。母親は息子の手帳を調べて、私の下宿先の電話番号を調べては、私に授業に出るよう頼んでくれと何度か懇願してくるようになりました。そして、ついには卒業せずして親に引き取られていきました。

彼は、小学校時代に灘中学校の受験資格が得られるくらい、勉強をがんばったんだと思いますが、すべりどめの中学、高校ではどう過ごしてきたのでしょうか。彼の問題はやはりその過程ではなかったのかと思わざるを得ません。


発達障害の子の学習で大切なこと


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年に200名以上の生徒を指導していると、毎年数人の割合で発達障害の子どもを指導することがあります。昨年まで、私がとある塾の教室責任者をしていたときは、入塾テストをやるものの、実質的には子どものやる気などをみて合格点に達していなくても、面倒を見させてもらっておりましたので、比較的多くの発達障害の子を見てきました。

さて、発達障害があるとされた子の親御さんは、いろいろとご苦労が絶えないと思います。きっと、子どもの現在の様子や将来のことなどで不安に思っている方も多いと思います。

私は、発達障害の専門家ではありませんし、その教育を専門にしているわけではありません。しかし、現場で指導していく中で発達障害の子どもの指導について、それなりの経験を蓄積していると思っております。

発達障害を持つ子への私の指導スタンスは、子どもの精神的成長を促し、その成長で障害の面を超えさせ、学力をつけていくことにあります。そして、それはできると思っています。以前の記事に書いたように、幼稚園に入る前に、医者から「大人になっても話すことすら困難」と診断された重度のLDの子が薬学部に合格し、薬剤師になったという経験からもかならず社会で通用する学力を身につけることは可能であると確信します。

したがって、発達障害であると診断された保護者の方に強く言いたいのは、

わが子を信じつづけてほしい

ということにあります。あきらめなければ、かならず精神的成長が障害を越えていく時がやってきます。子どもが幼ければ、幼いほど子どもにとって親の存在の占める割合が大きいですが、親があきらめてしまえば、その子を誰が信じつづけられるでしょうか。けっしてあきらめずに信じ続けてあげてほしいと思います。

とはいっても、実際には大変な場面は子どもの成長とともに訪れるでしょう。他人とのコミュニケーションがとれない、頑固でとても融通が利かない、どうしても漢字が覚えられない、英語が全く理解できない、図形の感覚がまったくないなど、いろいろとあると思います。いつか乗り越えられると言っても、保護者において、そんなに待ってられない、ついイライラしてしまうということが起こりえます。

お互いの関係が煮詰まってくると、親も子どもも苦しくなり、不幸になります。そんなときには、第3者にゆだねたらどうでしょうか。何かというと、塾や家庭教師の利用です。自分の子どもを理解して、ゆっくり確実に成長を促する教師を探すのです。どこの町にもそんな教師はいると思います。学校の教師は選べませんが、塾の教師や家庭教師は選べます。是非探してください。

ただし、その際、注意してもらいたいのは、第一に、自分の子どもが成長することを必ず信じてくれる教師であること、第二に子どもの精神的成長を積極的に促してくれる教師でないといけないということです。

成長を信じないと、障害を前提化してしまいます。つまり、「この子はこんなもんだろう」となってしまうと、伸びるものも伸びません。子どもの成長度合いに応じて、指導を強化していけば、ゆっくりした歩みでもかならず前進します。

第二に、発達障害の子どもは頑固な子どもが多いですから、ゆっくり確実に成長を促す必要があります。そのゆっくりさを認めることはとても大切です。しかし、そうはいっても、高校入試が迫っている場合、そうゆっくり待ってることもできません。だから、こちらから、子どもの精神的成長を積極的に促す必要があります。教科指導は子どものレベルにあわせますが、それ以外は子どもの年齢に応じた指導をします。教科指導は妥協できても、それ以外は妥協できません。たとえば、小6の子に小4内容からの漢字や計算をさせることは必要ですが、話し方や話す内容、質問の仕方、礼儀作法などは、年齢に応じたものでなければなりません。そうしないと精神的成長は期待できませんし、精神的成長が期待できなければ、いつまでもたっても発達障害に負けてしまうことになります。

最後に、繰り返しになりますが、最も大切なことは親が、とりわけ母親が子どもを信じることです。根拠などいりません。子どもの将来のために、わが子を信じ続けることだと思います。

もし、この記事に関心を持たれ、ご質問などがおありの方は、こちらからメールをいただければ、お答えできる範囲でお答えします。おひとりで悩まれないのが親にとっても、そして子どもにとってももっともいいことですから。

 


はなゼミの夏期講習会2011 特徴《7》 家庭学習の支援

LEGO Worker
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小学生のお持ちのご家庭で、

「塾に通わせたいが、子どもが行きたがらない」

「塾に通わせるほどではないが、夏休みにもう少し勉強してもらいたい」

などないでしょうか。

はなゼミでは、そうしたご家庭のために、夏休みの間の学習計画をつくり、週に1回の割合で学習の進度のチェックや学習のアドバイスなどさせていただきます。夏休みの間の家庭学習の支援をおこないます。

テキストは、市販されていない塾用教材を使用いたしますので、安心の内容です。

対象学年は、小学3年生~6年生までです。ぜひご検討ください。