【とある校長先生の言葉】違いを認めながら損得のないように扱う

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男の子と女の子とは明らかな違いがあるな。その違いを認めながら損得がないように扱うことが平等という事ではないかな。違いがない、違いを言ってはいけないというのは無理なことだ。それでも違いを見つけてはいけないというのなら、個別化なんて成り立たない

よく平等に扱うべきだということをいいます。しかし、何をもって「平等」というのでしょうか。私は、この先生が言われるように、子どもたちの違いを認めた上で、彼ら(彼女たち)に損得のないように扱うことこそが平等であると、私も思います。

公教育も同じだと思いますが、塾に通う生徒の中にも様々な子がおります。
かつて、私が教えた子どもにこういう子がおりました。彼女は小学6年生から通ってくれていたのですが、父親がおらず、母親が1人で彼女と弟を育てているのです。彼女の母親は、2人の子どもを育てるのに、パートを朝・昼・晩と1日に3回掛け持っていました。当然、ほとんど家にもおりませんでした。
当然にも家に親がいる家庭では、子どもの身の回りの世話から宿題のチェック、あるいは学校で困っていることがないかとか、日々確認することになるでしょう。しかし、彼女の場合は、家にはほとんど弟と2人きりですから、その時点で、家に親御さんがいる家庭と比べるとスタート地点で不利なわけです。この不利なところを少しでも、学校や塾が少しでもフォローすることができれば、彼女は他の子どもたちとともに学習に励むことができるでしょう。この役割を教育は果たさないといけないのではないかと思っております。

かつて教室長として働いていたときには、個別に通う生徒も含め、常時100人くらいの子どもたちの服装や態度、姿勢などを確認しておりました。服装といっても華美な格好をしているかとどうかというより、ご家庭での教育がどれだけ行き届いているのか、極端に言うと「家庭内虐待」を受けている子どもは服装で分かるといいますが、そういう確認です。

もちろん、私塾は学校ではありません。公教育ではありませんから、ご家庭の状況などに踏み込むことができませんが、それでもお月謝をいただいている以上、子どもの様々な状況を観察し、塾でできることはなるだけフォローしてあげられたら、それに越したことはありません。

先に書いた彼女のときには、崩れやすい中学2年の時がもっとも不安でしたが、なるだけ塾で勉強できる環境を整えてやり、寂しい我が家でよからぬことを考える時間を減らすことに注意を払いました。この子は、この春、無事高校に合格し元気に通ってくれております。
100人子どもがいれば、100人の性格があります。様々なご家庭がありますが、同じ家庭で育っていても、兄弟姉妹で性格が異なるということもあります。

男女の性差はもとより、さまざまな違いを認めてあげて、それぞれが損得のないよう、できるかぎり同じスタートを切れるために子どもたち1人ひとりを見てあげたいと思っております。


【とある校長先生の言葉】「自分は悪い子」だと思わせないしかり方

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叩いてしまった手を叱ろう。悪口を言った口を叱ろう。叩いた心や悪口を言った心を叱ってはならない。「オレは悪い子どもだ」と自覚させれば悪者が生まれる。手足や口だけが悪いのだと思わせれば本性は救われる。

真の教育者というのは、こういう視点で子どもとの接し方を考えるのだと、感動いたしました。

子どもには、無限の未来があり、希望があります。子どもを叱る場面は、その子が親の手を離れるまでに数え切れないほどあると思いますが、叱る視点は「子の悪い点」であるということです。その子自信を叱ってしまえば、その子は「自分は悪い子」なんだという自覚が生まれ、その子の本性までゆがめてしまい、可能性を閉ざしてしまうかもしれない。だから、叱るときにはその子の「悪い点」にのみ焦点を当てて叱れば、感情的になってたとえ「ひどく」叱ったとしても、その子の本性は救われるのです。

友だちをたたいてしまったなら、その子の「たたいた手」を叱り、他人に対しひどいことを言ったりウソをついたら、その子の「悪い口」をしかる。そのことで、その子に「自分は悪い子」であると思わさない。その子の本性を守ってあげる。子どもを叱るときには、ぜひとも頭においておきたいことです。


【とある校長先生の言葉】自分に必要のないところにとどまる意味はない

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最近、SNSで小学校の校長先生に知り合うことができました。その先生の言葉にいろいろ考えさせられています。

子どもが来ない、あるいは脱走する。なぜか? 答えは至極簡単なんだ。面白くないのだ。必要のないところに留まる意味が無いと、頭というよりも体がそう判断している。

「学校が嫌」「塾が嫌」~~子どもが自分にとってそこにいる必要がないと体が判断する、本当にそうだと思います。

かつての職場で教室長になったときの頃です。

塾に来るのをとてもいやがる小学5年生がいました。私は、そのことをはじめは知りませんでした。ただ、ダラダラと遅れてくるんですね。しかし、私が室長になり彼の算数担当になると、だんだん遅刻の時間が短くなってきたのです。その時に、私の前からいた事務員さんが「実は、遅刻するのが治らなかったのですよ」と教えてくれたのです。きっと、自分の塾での「場」ができたのだと思います。

その数週間後、彼の母親が来て、「ありがとうございます! これで、中学受験用の学習ができます」と喜んでいただき、中学受験塾へ転塾しました。私は、事務員さんといつ退塾してもおかしくない生徒がちゃんと来るようになってくれたことを喜んでいたのですが、なんのことはない、むしろ感謝されながら退塾されたのです。

数年後、電車の中で、とある私立中学の制服を着た彼を見ました。「無事、中学受験が成功したんだな」と苦い思い出とともに、ほっとした気持ちになったことを今でも良く覚えています。

話がそれましたが、学校でも塾でも、子どもにとってそこが自分の「居場所」かどうかは、きっと体ですぐに感じることでしょう。はなゼミは、お互い手を伸ばせば当たってしまうほどの、ほんとうに小さな塾ですから、私の子どもたちへの愛情、それは個々の個性にたいする愛情だけでなく未来への希望を持つ子ども一般への愛情でもあるのですが、そうしたものを感じてくれていると思っております。

だから、通ってくれている子どもたちは、きっと例外なく、はなゼミを「自分の居場所」と感じてくれていると思っております。成績が伸びてきた子もおりますし、残念ながらまだ伸ばせてない子もおりますが、「安心」して学んでくれていると思っております。ただ、お金をいただいている学習塾である以上、「安心の学習場」の提供だけでなく、しっかりと学力も付けなければなりません。成績が伸び悩んでいる生徒に対しては知恵を絞りなんとか基礎学力をつけてもらうため、努力をしていきたいと思っております。


一夜漬けはもったいない!

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子どもたちには、試験の日は分かっているのだから計画的に勉強しなさいと繰り返し言います。しかし、それでもテスト前になって慌てて、午前1時や2時に勉強したりする生徒はおります。

しかし、当然のことながら、「一夜漬け」したり「徹夜」したりする学習は、とても褒められたものではありません。学習の本質から言うと、それは「学習ではない」と言い切っても良いと思います。

人が記憶していく過程は、段階を踏むそうです。まず、「短期記憶」し、その後、必要な情報のみを「長期記憶」するそうです。1日15時間ほど、起きていれば、様々なものを見たり、聞いたりします。そのほとんどをその瞬間には覚えています。これが短期記憶です。しかし、それらのほとんどは、次の瞬間には忘れています。いちいち覚えていたら大変です。道を歩いていて、目に前にいる人の人相や服装、走っている車や町の様子、見ても自分に関係のないことであれば自動的に忘れていきます。全部頭に入ってきたら、パンクしてしまうでしょう。

つまり、基本的に「短期記憶」は忘れていくのが当然なのです。しかし、学習は自分のこれからの人生を決めていくものですから、忘れてしまうと大変もったいないことになります。自分をつくっていく学習内容は、しっかり覚えていて、将来にわたって役立てなければなりませ。そのためには、いったん覚えた「短期記憶」を、なかなか忘れない「長期記憶」にしていかなければなりません。

「長期記憶」にするために大切なことはいくつかあります。

まずは、その学習が自分にとって必要なことであると思うということです。人は、関心のないことはどんどん忘れていきますから、学習については強く関心を持つと言うことが最も大切だと思います。「自分の将来にとって必要である」とか「夢を実現するために必要」とか、こじつけてでも学習が自分にとって必要であると思い込むことが重要なことです。

次に、重要なことは充分な睡眠です。夢を見ている最中は、記憶を整理しているそうですが、しっかりと睡眠を取ることにより、短期的な記憶が長期的な記憶に変換されます。つまり、忘れにくくなります。もちろん、自分にとって「必要な記憶」だけが、整理されて残るわけですから、勉強に意義を見いださずに寝ているだけで成績が上がるわけはありません。あくまで、「自分にとって勉強すること(成績を上げること)は必要なんだ」と心底思っていることが前提です。

さらに、反復することで、その記憶はますます強固なものになっていきます。ただ、反復しても〈短期記憶〉→〈忘却〉→〈短期記憶〉→〈忘却〉→…と繰り返すだけで、「こんなに努力しているのに、なんで覚えられないのだろう」ということになってしまいます。大切なことはあくまでも「学習の意義」「学習の目的」を自分なりに見いだすことで、反復練習がより効果を発揮していきます。

だから、「一夜漬け」や「徹夜」で、「昨日は3時間しか寝てない、こんなに勉強した」なんていうのは、「すぐに忘れるための努力」であり、自慢にもならないばかりか、まったく無駄な努力としかいいようがありません。子どもたちには、効率よく学習し、将来の自分をコツコツと作っていってもらいたいと思います。


若いうちにいろいろなことを学んでおく

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長年、子どもたちを教えていると、時々、こんなことをいう子がおります。

「先生みたいに、かしこかったら良かった」

子どもから見ると、教師というのはそう見えるのでしょうが、決してそんなことはありません。

私の両親はほとんど学がありません。戦後、苦労して私と妹を育ててくれました。そんな中、私も「親がもっと頭が良ければ、僕も頭のいい子だったのに」と恨んだことも決して少なくありません。子どもの頃、父親にも母親にもほとんど学校の勉強を教えてもらった経験すらほとんどないのです。

だから、小学生の頃はよく図書館に調べ物に行きました。塾に通い出すと、塾の先生に質問ばかりしていました。

しかし、こうした経験は今思うと、大変良かったなあと思えるのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチが次のような言葉を残しているそうです。

老いてからの欠乏を補うのに十分なものを青年時代に獲得しておけ。年寄りが食物として必要なのは「知恵」である。 そのことを知る者は(知恵の)栄養不足にならぬよう、若いうちに努力せよ。

30代、40代と年をとるに従って、物忘れがひどくなったり、新しいことを覚えることがおっくうになったりしてきます。つまり、「知恵の栄養不足」に陥りやすくなるのでしょう。

私は、子どもたちによく「今、こうして君たちに教えていることは、ほとんど10代に勉強した内容なのだよ」ということがあるのですが、若いうちにいろいろなことを学び、経験しておくことは、人が生きていく上で、とても貴重な財産になります。

以上のことは、今を生きている子どもたちに、なかなか理解できることではありませんが、しかし理解できなくても、「かならず自分のためになるんだ」と自信を持って、「学びなさい、努力しなさい、そしていろいろと経験しなさい」と言い続けています。


「自分が分かる」と「相手が分かる」の違い~勉強をどう教えるか

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自分は分かっているのに、相手に分かってもらうように説明するのは難しいなあ
他人に、ものを教えるときに、こういうことを感じたりはしないでしょうか。

私は、塾講師を20年以上やっておりますが、やはりどのように教えれば、分かってもらえるだろうかと今だに考えたりすることがあります。しかし、若い頃は、ずっとそんなことばかりを考えておりました。

私は、実は塾講師に成り立ての頃は、文系教科を教えておりました。当時、文系教科は非常に苦手だったために、その予習は大変苦労しました。授業時間とほぼ同じ時間をかけて予習しました。5時間の授業があると、優に5時間は予習に費やしていたのです。今でも、その大変さは良く覚えております。

冷や汗をかきながらの授業の結果、年に何回かの生徒アンケートでは、生徒からの評価は意外といいものでした。時には、当時の教科主任よりいいアンケート結果をもらったこともありました。

そんな中で、ときどき、理系教科の代講をおこなうことがありました。しかし、得意な教科を教えているはずなのに、生徒からの評価はとても低かったのです。

苦手な文系教科を教えた方が評価が高く、得意な理系教科を教えた方が評価が低かったのはなぜだったのでしょうか。

それは、得意な教科、自分がよく知っていることを教えていると思っていても、実は子どもたちに自分の知識を「伝達」していただけだったのです。

あらかじめ、子どもたちは教えてもらう内容を知りません。そんな前提のない子どもたちに、まっさらな内容を「伝達」するだけでは、興味もわかないし、おもしろみもありません。まったく意味が分からないでしょう。私たちは、自分に関係しない、あるいは関心のないことがらについては、ほとんど頭に入ってこないですから、そんな内容を「伝達」されても、「よく分かった」となるはずはないのです。

では、苦手な教科を教えた方の評価が高かったのはなぜでしょうか。もちろん、予習を万全にこなしたということはあるのですが、最も重要なことは、予習した内容を生徒とともに「共有」しようとしたからだと思います。つまり、教えるときには、初めて習う内容を初めて聞く子どもたちの立場に立って、子どもたちとともに「わかり合おう」とする姿勢が重要なのではないでしょうか。

教える内容を、一方的に「伝達」しようとしても、なかなかこちらの思いは伝わりません。それどころか、あまりに一方的すぎると、子どもたちに「そんなん、分かるか!」「もう、勉強なんかせえへん!」と反発されることさえあります。また、「伝達」では、つい「こんなんも分からんのか」と気づかないうちに「責め」ていたりします。しかし、子どもの立場に立って、同じ目線で双方向に「共有」しようとすると、子どもたちは心を開き、理解もしやすくなり、その興味やおもしろさがわいてくるのだと思うのです。そして、「そんなんも分からんのか」ではなく「なぜ分からないのか、一緒に考えよう」という立場に変わります。

ご家庭で勉強を教える際、子どもに一方的な「伝達」になっていないか、子どもと同じ立場になって双方向の「共有」~勉強の楽しさや難しさ、乗り越えたときの喜びやそれまでの苦労など、さまざまなものを共有するようになっているかということを意識してみると、またちがった面が見えてくるかもしれません。


正解するということ

to do list for third graders
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答え合わせをするときに、とくに心がけていることがあります。

それは、○か×が問題なのではなく、なぜ○だったのか、×だったのかということです。

もちろん、子どもたちに問題を解かせているわけですから、○であることがいいに決まっています。子どもたちも、自分が解いた問題が○であることがうれしいに決まっています。

しかし、それだけであれば、勉強とは言えないのではないかと思うのです。

私は、学校で習うことだけでなく、すべての事物には理由があると思っています。たとえば、電車の乗るろうとしてホームに立っているとアナウンスがながれます。

電車が到着いたします。おりる人がお済みになられてから、ご乗車ください

なぜ、電車から降りる人が先で電車に乗る人が後なのでしょうか。単なるルールだといってしまえば、それまでですが、そうしないと事故になる可能性があるのです。車掌さんは乗る人の確認はできますが、電車の中にいるおりる人の確認はできません。つまり、さきに電車に乗ってしまうと、車掌さんはおりる人が確認できないために、いつ電車の扉を閉めればいいのかわからないのです。だから、おりる人がすんでから、乗る人、乗る人がいなくなれば、扉を閉めるというのが事故を防ぐ方法なのです。

話が長くなりましたが、国語にしても、算数にしても、理科にしても、社会にしても、やはりなぜ、それがそうなのかということが非常に大切だと思うのです。とくに、問題演習において間違えた場合、間違った理由がやはり大切です。それは、計算問題のミスであっても同じです。なぜ、その部分でミスをしたのかということを考えると、意外に、悪いクセや思い違いなどをしていたりします。
勉強の最も基礎的な部分は、「覚える」ということだと思いますが、さらに進めて「なぜか」というところが理解できれば、勉強もより面白くなり、応用を解く力もつくのではないかと思います。


なぜ、勉強するのか

Pink 80's Bokeh texture.
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福岡のとある個人塾の先生の言葉に感動しました。

子どもの「なぜ勉強しないといけないのか」という疑問に

「学んだ量がお前の人生だ」

と答えるというのです。当たり前のことですが、心が動かされました。まさにその通りなんですね。

生まれてくる赤ん坊は、何もできません。特に、他のほ乳類とちがって、ヒトの赤ん坊というのは、ほんとうに何もできない状態で生まれてきます。1人で立つことすらできません。しかし、親を中心に様々な人々に愛され、いろんな動作をまねしながら、ハイハイからつかまり立ち、そして1人で歩き始めます。言葉でも同じようにして覚えていきます。1つひとつ、まわりの大人からいろんな言葉がけをしてもらいながら、学んでいきます。

最近読んだ本では、立体に見ることすら、その経験からの学びだといいます。私たちは、3Dに見えることを当たり前だと思っていますが、経験がなければ3Dに見えることはないのだそうです。その本には、次のような事例が書いてありました。

生まれつき目の見えない人が、大人になって、手術をして目が見えるようなった。目が見えるようになって、初めてボールをみても、それは「まる」にしか見えないといいます。目の前にあるボールをさわって初めて、それが立体であり、ボールであることを認識するというのです。私たちが立体的にものを見ているのですら、実は当たり前ではなく、経験と学びなのです。

いろんな事を経験し、そこから学んだことが、その人間を作り上げる~~これがまさに基礎なのです。だから、多くのことを学び、多くのことを経験していくべきなのです。

これからは、子どもが「なぜ、勉強しなければならないのか」と聞いてきたら、「人は学んだこと、経験したことを元にして生きる。その量こそが君の人生そのものなんだよ」と答えようと思っています。


文部科学省が目的とするこれからの英語教育

Fox Lea Farm Horse Show, Venice, Florida 11.6.2011
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小学生にも英語教育が本格的に導入されてきました。中学校では2012年に新指導要領になり、完全に「ゆとり教育」から脱することになります。

さて、小学生をお持ちの保護者の方を中心に学校英語がどのようになっていくのか、不安な方もおられると思います。
今、文部科学省が目的とする英語教育は、
「使える英語を高校卒業までにマスターする」
ということになります。
文部科学省が想定する高校英語の目的から逆にみていきたいとおもいます。
高校英語では、これまでの講義型授業ではなく、活用型の授業になります。つまり、英語で自分を表現することを目的とします。端的に言えば、「使える英語」を高校生のうちにマスターするということです。
したがって、これから高校英語では、英語の先生は日本語を使わない授業をおこなっていくことになります。具体的には、2013年からは、日本語を使わずに英語の授業がおこなわれ、英語で自己表現する授業になっていく予定です。
高校英語で、英語ので授業になるということは、中学までにはそうした英語の能力を付けなければならないということになります。
従って、中学英語の目的は、リスニングとスピーキングの他に、リーディングとライティングがかなり強化されます。来たるべく英語の授業に耐えれるだけの、単語力や英語表現力を身につけなければなりません。
しかし、中学英語でそこまですべてをマスターするのは大変なので、小学英語でリスニングとスピーキング、簡単な会話をマスターしようというわけです。
もう一度まとめると、次のようになります。

小学英語 → リスニングとスピーキング、簡単な英会話
中学英語 → +リーディングとライティング、日常会話に必要な単語や表現
高校英語 → 総決算として活用型授業へ。つまり英語を使う授業へ

小学生あるいは中学生においては、それぞれ最低限何をマスターしなければならないのか、ご確認いただければ、学年が上がっても慌てる必要はないのではないかと思います。
最後に、今まで、中学・高校と英語を勉強してきても、誰も話せるようにはならないといわれてきた学校英語ですが、これからは小5~高3までしっかりと勉強していけば、高校卒業の頃には、ネイティブと会話できるくらいの能力がつくようにカリキュラムが変えられました。
子どもたちへの負担はかなりのものですが、考え方を変えれば、高校までしっかりと学習すれば、英語が使えるようになると思えば、将来の財産になるのではないかと思います。


愚者は賢者に学ばず、賢者は愚者にも学ぶ

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イギリスのことわざにこんな言葉があるそうです。

愚者は賢者に学ばず、賢者は愚者にも学ぶ。

これまで20年あまり、本当に多くの子どもたちと出会ってきました。20代に教えた子どもの中には、芸能界で活躍している子もいたりします。
私は、授業中に「くだらない」話をしたりするのも結構好きなのですが、子どもたちを見ていると、その受け止め方に大きな違いがあります。
もっとも多いのは、(1)単純に笑ってくれる子ですね。そして、(2)真剣な顔をして「くだらない」話を聞いてくれる子(3)まったく相手にせずムシする子の大体3グループに分けられます。
第1グループの子どもたちは本当に子どもらしく、笑ってくれるので、こちらもたいへんにうれしくなります。
第2グループの子どもは、今にも「くだらない」話をメモしそうな勢いで真剣に聞いてくれます。もちろん、こちらも授業の流れとはまったく関係なく「くだらない」話をしているわけではありません。実は、流れの中で、意図してやっているわけですから、その意図を見ぬこうぐらいの迫力で聞いてくれるのはうれしい限りです。ただ、できればいっしょに笑って欲しいのが本音ですが。
さて、問題は第3グループです。こうした子どもは、あまり成績が伸びた記憶がありません。クールなんですね。
私は、勉強もできれば、楽しめたらと思っております。一生懸命にがんばって分かるようになってうれしいというのは正当ですが、「緊張と緩和」の授業で「緩和」の部分をもっとフランクに楽しめたら、勉強はますます楽しくなるんじゃないかと思っています。
「くだらない」話は、それはそれで楽しんでもらい、5年後、10年後、あるいは20年経ったときにふと「あっ、あの時のしょーもない話はこんな意味があったのか!」なんて思い出してくれれば、本当に教師冥利に尽きます。