『起死回生の家庭教育』

私が通っていた中学校に当時、少し変わった先生がおられました。いろいろなエピソードがありますが、今でも良く覚えていることは、生徒にむかってことあるごとに「三歩下がって師の影踏まず」と説教をされておられました。私は、「尊敬」というものは、「上から押しつけられる」ものではないと思っております。小学6年生のときの担任は授業の大半を「居眠り」される方で、とても「尊敬」できるような教師ではありませんでした。授業は、教室の前に置かれたテレビに流れるNHKの小学講座を見せられることが多かったですし、いまだによく覚えているのは、国語の授業の際に音読をある生徒に当てたまま眠ってしまい、彼は延々と本を読まされたことです。そんな教師に対しても、「三歩下がって、、、」なんてとても思えるものではありません。
私が塾に通うきっかけとなったのは、この先生が担任になると分かった小学6年生のときでした。こうしたことを考えると、やはり「尊敬」の念とは、他人から押しつけられるものでは決してなく、心の奥底から自発的に出てくるものであり、それゆえに非常に尊いものであると思っております。
ところで、私には、3人の恩師がおります。この先生方がおられなければ、今の私はなかっただろうと思うのです。私自身、もういい年になってしまいましたが、今なお、その先生方にお目にかかると、緊張して仕方がありません。
成績不振、受験失敗、イジメ・不登校 起死回生の家庭教育』は、当時、小学6年生の私たちに熱意と愛情を注いで教えていただいた太田明弘先生の本です。
今、はなまるゼミナールには、たくさんに子どもたちが通ってきてくれております。その中には、親御さんが「我が子の学力」をたいへん心配され預けていただいているお子さんが多数おられます。この本を読むと、私の教育にかける思いは、まさに太田先生から伝えられた魂であると実感せざる得ません。
教育に必殺技のようなものはないと思います。しかし、「成績不振」「受験失敗」「イジメ・不登校」そして「子どもの自立」に向けて、悩まれていろ保護者の方には、ぜひご一読していただきたいと思います。何らかのヒントが得られると確信いたします。

子育てや教育において最も大切なことは、どのような崖っぷちに立たされようとも親は希望を失ってはならないということです。親が諦めたら、その段階で子どもの教育は終わってしまいます。いかに失意や落胆が重なろうとも、子どもが大人になるまで、子どもの可能性を信じ、打てるだけの手を打ち尽くすということが大切なのです。『起死回生の家庭教育』「はじめに」より引用

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「つめこみ」教育考

Happy Pi Day (to the 69th digit)!
 

30年前の算数の問題集はむずかしい

昔の問題集を見ていると、「よくこんな問題を解いていたなあ」ということがあります。今の問題集と比べ、数段難しいのです。

中学では2012年から、指導要領が改訂され、ついに「ゆとり教育」から脱却します。こういう表現をすると、「詰め込み教育へ戻るのか」という論議が一方で起こります。

しかし、私は、脱「ゆとり」が、そのまま「詰め込み」ではないと考えます。

そもそも学習とは、基本事項をしっかりと「詰め込む」ことであり、それ抜きに発展はありません。基本をしっかりと「詰め込んだ」上で、応用力を身につけていくことが子どもたちにとって必要であると考えます。そのとき、応用までも「解き方、考え方の暗記」によってクリアしようとするのが、いわゆる「詰め込み教育」だと思うのです。そのように、すべて「暗記」によってクリアしようとする「詰め込み教育」には、私は反対します。

つまり、学習の初期段階の「暗記」という作業と、後半の「応用」への道筋を一緒くたにしてしまうと、脱「ゆとり」=「詰め込み」の復活というようになってしまい、おかしくなるのではないかと思います。

さんざん話されてきたことですが、たとえば「ゆとり教育」下においては、算数において3ケタ以上の計算は学校で教えられませんでした。その結果、中学に入り、濃度や圧力計算などで桁数が多くなると、多くの子どもは計算ができなくなったのです。これでは、基礎的な計算すらできないというのとほぼ同義であり、教育の意味を疑ってしまいます。

つまり、基礎学力育成の時期において、しっかりと「詰め込み」教育をおこなうメリットは、基本的な事項を暗記し続けることによって、頭の中に多くの知識が残せるということです。実はこの事は、人間の学習過程においては非常に重要なことではないでしょうか。土台を形成する若いうちに知識を覚えるクセを身に付けることで、その後の人生における判断材料を豊かにし、実社会でのさまざまな「応用」ができるようになるのです。

その上で、応用に関しては、自分の力で考え、解き明かしていく力を付けるべきだと思います。子どもたちが今勉強しているのは、数年先に受験ではありません。受験はあくまで通過点であり、今おこなっている勉強は、その後の人生を自らの力で切り開いていくためであると思います。

安易なテクニックなどより、本質的に物事を考えていく力を付けることで、たくましく生きていける人間へと育ってほしいと思うばかりです。


子どもへの評価

Free Child Buried in The Sand Creative Commons
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保護者の皆様にとっては、つい我が子と周りの子と比べてみたりしてしまうことがないでしょうか。往々にして、「隣の芝は青く」見えるものですし、回りの子と比較してみても、自分も我が子も救われないのが現実です。

そこで、子どもへの評価基準を作ってみてはいかがでしょうか。

(1) 半年前より(あるいは昨年より)、どれだけ進歩したか

他人の子を預かっておりますと、つくづく「子どもは、日々成長し、その成長速度は大人と比べるととても早い」といつも感じるのですが、これが親子ですと、なかなか「日々の成長」に気づかないことが多かったりします。

そこで、すこし時間をおいて、「半年前どうだったかな」「1年前は?」と振り返ってみて、その間の成長の度合いを見てあげてはいかがでしょう。そして、「けっこう、成長してるな」と感じたのであれば、ぜひそれをお子さんに伝えてあげてください。保護者の方々も、「自分の子育てへの評価がない、あるいは少ない」と思われることがあると思いますが、子どもも同じです。親御さんから、評価されれば、子どもはもっと勢いづきます。

(2) 人のいうことを素直に聞き、行動に移せる子になっているか

素直さというのは、とても大切であると、最近よく実感いたします。

私の名刺に、「学力を生きる力に」と刷り込んでありますが、日々の勉強やテスト勉強、志望校選びや受験勉強、そして合否、その1つひとつを通して、将来子どもたちが立派に独り立ちしていけることを意識しております。

昨年まで、大手塾で教鞭を執っておりましたが、毎年、新人講師が入ってきます。新人の特権として、様々な学ぶ機会が与えられますし、失敗する機会も与えられます。近年、大手企業では「新人教育」が省かれ、即戦力として実力のある新人を求める傾向にありますが、それでも新人は多くを学び、失敗も経験しながらたくましくなっていきます。

しかし、新人の中には、あまりにもプライドが高く、多くのことから学ぶことを拒否し、失敗を繰り返す人がいます。最初の1~2年は、先にも書いたように「学びの猶予」があるにもかかわらず、それを無視するのです。こうした人は、基本的に「仕事ができない」です。すべてにおいていえると思うのですが、「素直に学ぶ」という姿勢がなければ、その者に経験値が積み重なることはありません。逆に、自分1人の人生で経験できることなどたかだかしれていますが、周囲の先輩や上司から学べば、自分の人生経験以上の「経験」が積み重ねられることになります。

まさに、「素直さ」というのは「学び」そのものであると思うのです。

親や教師、大人のいうことを素直に受け止め、実行にうつし、つねに自分を高めていける、こうした子どもは不安定な将来といえどもたくましく生きていけるのではないかと思います。

(3) 我慢強く、ていねいに物事に取り組める子になっているか
「ゆとり教育」下のカリキュラムにおいて、私が最大の問題のひとつだと考えるのが、「ガマン強く丁寧に解かせる」問題がなくなったことです。

たとえば、国語においては、指導要領では「鑑賞する国語」と位置づけました。その結果、小学国語にしても中学国語にしても、各学年において子どもたちが「普通に読める」作品だけを教科書に載せたのです。すると、いくら教科書を読んでも、「ちょっと難しい言い回し」や「ことわざや故事成語」などほとんど出てきません。今、お子さんをお持ちの保護者の方は、「自分もそんなの勉強しなかったが、これくらいの言葉は自然と知っていた」と、我が子を見て思うことはないでしょうか。しかし、それはまったく仕方ないことなのです。教科書には「生活する上で必要最低限のことば」しか載っていないのですから。

「ゆとり」前には、漢語表現や文学的表現などが教科書に使われていて、子どもたちは理解するのに苦労していました。しかし、そうした苦労を伴いながら、子どもたちは頭の使い方を自然と学び、言葉を覚えてきたのです。

算数・数学においてもいえます。「ゆとり」下では3ケタの計算などすべて排除しました。あるいは図形などで、「どうやってみたらいいのだろう」と苦労するような問題はなくなったのです。

こうして教科書がかんたんになり、子どもがさほど苦労しなくても、解けるし理解できるようになったのです。その結果、子どもたちから「いろいろ考えてみたらできた」という喜びや悩み苦労するという経験を奪い、忍耐強くものごとを考え、行動することを奪っていったのです。

はなゼミでは、小学生に、ときどき20ケタほどの足し算をさせたりしますが、大概の子は「うわ! めんどくさい」といいます。しかし、これが「頭の体操」であり、自分の頭を鍛えてくれると感じてくると、パズルを解くような感覚になってきてけっこう楽しくなるのです。子どもというのは、好奇心のかたまりですから、当然のことでしょう。自分が「かしこくなる」ことを否定する子など、本来はいないはずなのです。

さて、たくましく生きていく子どもに育ってもらうための3つの視点で、ぜひ我が子を評価してあげてください。ひょっとすると、すこしちがった姿が見えるかもしれません。


塾をサボる子について

Troy Historic Village
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以前の記事で、塾に遅刻する子、サボる子というのを書いたのですが、「塾をサボる」というキーワードで多くの方が検索されて、このブログを訪問してくださっているのに、大変驚いています。

保護者の方か、塾関係の方か分かりませんが、そんなに「塾をサボる子」が多いのでしょうか。

私は、基本的に「子どもは好奇心のかたまり」であると思っております。だから、学習を通じて、子どもたちが好奇心を刺激されれば、塾通いがイヤになることは基本あり得ないと思っております。また、子どもは大人と違い人間の本質がそのまま現れておりますから、その場所に自分の居場所があると感じたなら、いやがるどころか喜んできてくれると思っております。

では、なぜ、子どもが塾をサボるのか。それは単純に「面白くない」からでしょう。そして、自分が認められておらず「自分の居場所」を感じることができないからだと思います。

検索しておられる方が保護者でお困りなら、塾と子どもの相性が合っていないといわざるを得ません。それは塾の授業が難しく「面白くない」のか、その塾の講師やルールに合わなくて「面白くない」のか分かりませんが、その子にとって塾での学習が自分にとってはまったく「無味」なものとしか思えないのでしょう。塾の授業が自分の好奇心を刺激しないのであれば、その場にいる必要もありません。また、そうであるなら、親の方も無理にそんな塾に通わせる必要もないかもしれません。勉強は決して楽なことではありませんが、分かるようになると面白くなるものですし、その感覚が成長しても子どもにとって大変重要な経験になるのではないでしょうか。大人なら、自分がこの場にいる意味などを理解し我慢することができるかもしれませんが、子どもの年齢が下がれば下がるほど、場にいる意味を理解などできないでしょう。

検索してくれたどり着いてくれた方が塾の先生なら、これはいくらでも工夫ができる問題であると思います。授業が難しいと感じているなら、その子に分かるようにすればいいだけですし、あるいは補習をしてもいいでしょう。塾のルールになじめない子がいるなら、なじめるように「見える化」したり「ゲーム化」したりして、その子に入っていけるようにすればいいだけです。塾は公教育とは違い、親御さんや子どもからすれば、いくらでも「選ぶことができる」訳ですから、それくらいの工夫は当然すべきです。もちろん、塾の方針をねじ曲げたり、妥協する必要はないと思います。子どもが塾の方針を受け入れやすいように、敷居を下げるなど工夫してあげれば、子どもたちは柔軟性がありますから、すっと入ってくるでしょう。

いずれにせよ、塾に通うのは子どもであり、通う本人が「いやいや通う」というのは辛いことです。ただでさえ、学習というのは忍耐や困難がつきまといます。楽して勉強ができるようになるなどあり得ません。であれば、少なくとも子どもが通いたいと思える塾に通う、あるいはそういう塾にしていくことは当然なのではないでしょうか。


【とある校長先生の言葉】善行の訳はとことん聞いてあげる

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善行の訳はとことん聞くがいい。その子にも周囲の子にも良い影響があるから。しかし悪行の訳は聞かないほうがいい。訳があれば悪行も許されるとの、間違ったメッセージを送ることになる

子どもがいいことをしたときには、とことんその理由を聞いてあげるといい。聞いてもらえれば、その子にとってもうれしいし、聞くときには兄弟や他の子のいる前で聞いてあげると、それを聞いている他のこにとってもいい影響が与えられるのです。「あ、こんなことをしたら、ほめてもらえるんだ。注目してもらえるんだ」と気づかせることは大切なことです。
また、悪いことをしたときには、理由は聞かない。理由があれば、悪いことをしてもいいと思わせてしまうかもしれない。このこともとても大切なことのように思います。とりわけ、子どもが幼いうちは、「理由」よりも、ことの善悪をしっかりと教えることの方が重要だからです。
子どもをほめる、あるいは叱るときにかならず覚えておきたいことだと思います。


愚者は賢者に学ばず、賢者は愚者にも学ぶ

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イギリスのことわざにこんな言葉があるそうです。

愚者は賢者に学ばず、賢者は愚者にも学ぶ。

これまで20年あまり、本当に多くの子どもたちと出会ってきました。20代に教えた子どもの中には、芸能界で活躍している子もいたりします。
私は、授業中に「くだらない」話をしたりするのも結構好きなのですが、子どもたちを見ていると、その受け止め方に大きな違いがあります。
もっとも多いのは、(1)単純に笑ってくれる子ですね。そして、(2)真剣な顔をして「くだらない」話を聞いてくれる子(3)まったく相手にせずムシする子の大体3グループに分けられます。
第1グループの子どもたちは本当に子どもらしく、笑ってくれるので、こちらもたいへんにうれしくなります。
第2グループの子どもは、今にも「くだらない」話をメモしそうな勢いで真剣に聞いてくれます。もちろん、こちらも授業の流れとはまったく関係なく「くだらない」話をしているわけではありません。実は、流れの中で、意図してやっているわけですから、その意図を見ぬこうぐらいの迫力で聞いてくれるのはうれしい限りです。ただ、できればいっしょに笑って欲しいのが本音ですが。
さて、問題は第3グループです。こうした子どもは、あまり成績が伸びた記憶がありません。クールなんですね。
私は、勉強もできれば、楽しめたらと思っております。一生懸命にがんばって分かるようになってうれしいというのは正当ですが、「緊張と緩和」の授業で「緩和」の部分をもっとフランクに楽しめたら、勉強はますます楽しくなるんじゃないかと思っています。
「くだらない」話は、それはそれで楽しんでもらい、5年後、10年後、あるいは20年経ったときにふと「あっ、あの時のしょーもない話はこんな意味があったのか!」なんて思い出してくれれば、本当に教師冥利に尽きます。


塾に遅刻する子、サボる子

Fourth-graders attending class
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研鑽の一環として、多くの教師や塾経営者のメールマガジンを購読しています。いろいろと工夫をされていたり、いろいろなご苦労を読むと本当に勉強になります。

さて、ある個人塾の先生のメールマガジンで、ここ数年、生徒の様子が変わってきたというのがありました。

あいさつはしないし、遅刻を平気でしてくる、授業中でも“休み時間のように”大騒ぎする、休み時間になるとコンビニに出て行き授業が始まるのも気にせず食べ始める、、、

これが事実なら、本当に大変なことです。
そして、この先生はこの原因を「ゆとり教育と平成不況」「競争がない、叱らない、自由放任」にあると見ておられます。
これだけでは、言葉の羅列だけなので、正確な意味は分かりませんが、私はこうした立場はとりません。
「なぜ、子どもたちが平気で遅刻するのか」「なぜ、授業中大騒ぎするのか」「なぜ、休み時間に教室から抜け出すのか」「なぜ、帰ってきて授業に入れないのか」を、外部に原因を見いだすのではなく、内部つまり塾=自分に原因を見いださないと根本的に解決しないと考えるからです。
私は、学生時代に塾講師をはじめてもうかれこれ20年以上やっております。ここ10年くらいは、遅刻や無断欠席しても、怒ることをあまりしなくなりました。なぜなら、子どもたちが塾で勉強することに意味を見いだし、授業を受けて自分の役に立つと思えば、遅刻や無断欠席などしないんです。「この先生の授業を聞き逃したら、もったいない!」と思わせる授業をすれば、よっぽど出ない限り休みません。むしろ、こちらが「体調大丈夫? 休んだ方がいいんじゃない?」と言わなければならなくなります。
つまり、塾側が子どもたちに本当にいいものを提供していれば、子どもたちは注意しなくても進んで塾に来るようになるのです。
はなまるゼミナールでは、1コマ55分という短い時間で区切りおこなっています。他塾から移ってきた小学生などは、この55分という時間がとても短く感じるらしく、いつも「ええ~、もう終わりなん! もうちょっとやろうよ」って言ってくれます。もちろん、塾の初めての子にとっては55分は学校の授業より長いはずですが、学校より短いと言ってくれます。
時間というのは不思議なもので、面白ければ早く過ぎるし、面白くなければひたすら長いんですね。
塾の授業が面白ければ、子どもたちはどんどん勉強してくれます、どんどん勉強すれば成績も良くなり気分もいい、するとますます勉強するようになるといういい循環が生まれます。
すると、塾に対する信頼が生まれ、帰属意識が芽生えてきます。いい塾には、熱心なファンになる生徒がいます。あいさつや礼儀なども、こうしたところから生まれてくるのではないでしょうか。もちろん、あいさつや礼儀を教えるということも大切ですが、塾やその塾の先生にそうしようと思う気持ちはもっと大切です。自分が、その塾の一員であることを誇れる子どもは、自然と塾やその先生に「あいさつや礼儀」が守っていけるのではないかと考えます。

子どもたちの学習姿勢や挨拶や礼儀などは、まさに塾や教師を表す「鏡」ではないかと思います。


母親の愛情と言語教育

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外山滋比古『日本語の個性』という本の中に、次の一説があります。

人間は生まれると母親を中心とする周囲の人たちから言葉の教育を受ける。ところが、この新生児に対する言語教育をいかにすべきか、技術的に確信をもっているおかあさんは一万人に一人もいないであろう。学校の先生になるには、大学で教職の単位を取らなくてはならないが、最愛の我が子の三つ子の魂を決定する言葉の教育には、無資格、無免許のままで臨んでいるんだからおもしろい。それでいて、あまり大過なく母なる言葉、母語を赤ん坊が覚えるのは、母親には限りない愛情があるからだ。言語教育においてはしろうとであるが、愛情によって欠けたところを補っている。

子を産んだ母親が、我が子に言葉を教えるための資格や免許もなしになぜ教えることができるのか。それは、母親の我が子への限りない愛情があるからであるという言葉には、目から鱗が落ちました。そうかもしれません。この本は、日本語について書かれてあるので、言語に絞っていますが、言語のみならず日々赤ん坊を育てるために奮闘されている母親の限りない愛情で、子どもが育っていくのだと思います。
さらに、この本の中で、次のように続きます。

外国人に対する日本語教育についても、この母親の教育は参考になるはずだ。厳しい教師であることよりも、愛情の教師であるほうがはるかに大きな成果をあげうる。もちろん母親のようにはいかないが、、、

つまり、外国人に日本語を教えるためには、厳しい指導よりも、母親のような愛ある教育の方が大きな成果があげられるというのです。
外山氏は、子どもが覚えるようにという視点が書かれていますが、わたしは、教育全般にいえると思います。私が子どもの頃は、よく先生にたたかれたり、正座をさせられたりしました。それを“暴力”という一言で片付けるのには抵抗を感じますが、そうした厳しい指導よりもやはり暖かい指導の方が成果を上げるのではないかと思っております。
教育には、やはり“愛情”が中心であると、改めて感じた次第です。


放物線を描くように

artree #69, by ipad
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この夏、たくさんの生徒を教室に迎えることができ、紹介していただいた保護者の方や選んでいただいた保護者の方に本当に感謝する次第です。

さて、はなゼミの方針として、ゆっくり確実に成長を促すということがあります。テクニックで早急に結果を出すのではなく、「なぜか」を大切にしながら、ゆっくりと子どもたちに勉強を教えております。寓話的に表現すると、「ウサギとカメ」のカメの指導方法ではないかと思います。

たしかに、華やかさという意味では、ウサギのように走りぬける方がいいかもしれません。しかし、はなゼミではあえてカメのようにゆっくりしかし確実に歩んでもらいたいと思っております。これは、私の塾講師20年の中で、高校から大学に行った生徒たちをみていると、やはりそのほうがいいという結論からです。

さて、このカメのような学習方針、数学的に表現すると放物線を描くようにといった感じでしょうか。ゆっくりゆっくり、そして確実に上っていき、受験期には一気に駈けのぼり、勝利をつかんでいく。このような指導を心がけております。


学ぶことは、権利であり義務である

LA Orienteering  Course
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7月13日付けの『毎日新聞』で、奈良県夜間中学生徒会総会が開かれたという記事がありました。

私は、学ぶということには2つの側面があると思っています。

1つは権利としての側面です。日本国憲法を持ち出すまでもなく、教育を受けることができるというのは万人に認められた権利です。教育を受けなければ見えてこなかったものも、教育を受ければ見えてくるということがあります。そうすると、自分の人生もより可能性を開くことになります。お父さんやお母さん、あるいは学校の先生から星座の話を聞いて、夜空にうかび星が身近に感じることはけっこうあることではないでしょうか。また、逆に教育があるからこそ、人にだまされたりして悲しい思いをすることも少なくなるのではないでしょうか。そして、何よりも最低限の教育を受け、社会の一員として存在していくということがもっとも大きな意味であるように思います。

2つめに、義務としての側面です。子どもは、将来、社会に出て活躍していくために、義務教育を受けるわけですが、大人にも学ぶ義務があるように思います。それは、自分がより幸せになるために学ぶ、次世代の子どもによい社会を残していくために学ぶ、さらによい社会を建設していくために学ぶという側面です。学ぶことで、いろいろ発見することができ、人生もより楽しいものになるでしょう。

私は、子どもたちには、僕たちは死ぬまで学び続けるんだよといいます。学ぶということを「学校」に縮めてしまうと、たとえば高校入試がそれ自体が目的化してしまったりします。中3生と受験勉強をがんばり、合格したのち、「高校に入ってもがんばるんだよ」なんていうと、「え~、まだ勉強するの」なんていう生徒が時々います。しかし、当然のことですが、入試はひとつの区切りであり、目的ではありません。とりわけても、高校中退の割合が2%を超えると聞くと、やはり、高校に入学することが目的ではなく、そこから先を見据えていくことがとても大切であると思います。だから、子どもたちにははじめから、死ぬまで勉強なんだといっているわけです。

さて、何らかの事情が、困難な状況があって、学べなかった人たちが、「学びたい」と夜間中学校で学ぶ。すばらしいことであると思います。近年、夜間中学校の役割は終えた、あるいはきわめて小さくなってきたという風潮があるように思えます。しかし、私はそうは思いません。現代社会は、物質的にはとても豊かになっている反面、人間社会はより複雑になり、学べなかった人は存在し続けると思います。それを「教育を受けなかった」個人の責任として投げ捨てるのではなく、社会を建設する一員として包み込める「大人の義務教育」として、夜間中学校は必要だと思うわけです。

大人も子どもも、社会で暮らし、人との関わりの中で生きている以上、教育を受けることはなくてはならないことですし、だれもその権利を奪うことはできないと思っております。